携帯電話について哲学してみよう。

僕って携帯電話(以下ケータイ)を携帯してるのかな?
それともケータイに携帯されてるのかな?


そんなふうに考えたことありませんか?あ、下の文が分かりにくいなら補足すると「ケータイ(を通してみんな)に携帯されてるのかな。」っていうことですけど。


しかし、この四角くて小さな無機物、予想以上に僕らに干渉してきますよね。最近、ケータイにいろいろストレスもらってる気がします。なによりこの「常にみんなと連絡が取れる状態」って言うのが、凄まじく疑心暗鬼を掻き立てます。ネガティブループ。


「いつでも連絡が取れる。」→
「メールが返ってこない。もしくは電話に出てくれない。」→
「今日は忙しいのかなって考える。」→
「それでも全然返ってこない。忘れてるのかなって考える。」→
「もう一回メール送ってみようかと思う。」→
「でもそれをやって返ってこなかったら、本気で嫌われてる気がする。」→
「なかなか実行に移せない。」→
「小鳥が泣き始める。今日も君から返信が来ないまま朝が来る。」


まあ、最後はともかく、たまに仲の良い男友達すら疑う気になってしまうくらいの魔力を携帯電話って秘めてますよね。それでいて、あまりにも鳴らなすぎると「俺って気にされてない?」って嫌な気分にしてくれる。もう、なんてスペシャルな道具。初めて手にしたときは、ドラクエでいう呪いの防具を装備しちゃったときの効果音が流れてもおかしくない。


だからといって、タモリさんやマドンナみたいに持たなきゃすむってモンでもないのが悲しいところ。そう、あまりにも便利すぎるからね。僕が今上に書いた文すべてひねりつぶしてしまうくらいの、メリットがあるから。自分で持たないって強い意思で決められる、タモリさんやマドンナ自身はいいんですよ。気の毒なのはマドンナの娘。母曰く「絶対持たせない」だそうですが、それは子供の社会が大好きな「排斥する理由」を与えてしまう。みんなが持ってるのに自分はもってない。小、中学校の「みんな」っていうのは、結構本気で8、9割りの人間を指してしまったりするし。俺は親のエゴでとある流行のゲームを買ってもらえず、さっぱり会話に入れなくて悲しんでる友達が、凄く気の毒だった思い出がある。小学校5、6年の話。


もうこれだけみんな持ってると、持たざるおえない。しかし、よほど楽天家でなければ、ケータイという無機質の持つ鎖に、縛られるのは必死。僕は今日も誰か彼かのケータイの返事を待ちながら、眠りに付くのです。こんなケータイ哲学を思い出しながら。





追伸・・・哲学って、ふと口に出したとき、「てつがくのライオン」っていう工藤直子さんの詩を思い出しました。そして、すごくあったかい気持ちになりました。ライオンがかたつむりにおしえられて、必死に「てつがくてき」になるって奮闘して、疲れちゃう。でもあとでかたつむりに「とても美しくて、とても立派」って褒められる話。上の文とはまったく持って関係ないけど、哲学ってなんとなくそういうもんな気がしてくる素敵な詩なので機会があれば、ぜひ読んでみてくださいな。