自分に「無題」というタイトルをつけること

ええっと、わりと長々とトップに君臨していた、「春」という一行詩。これは高校生のときに書いたもので、今まさに、みんなに置いていかれているということを嘆いているわけではないです。もしあれを見て必要以上に心配した人がいたならば、スイマセン。大丈夫、僕は元気です。


そして、匿名希望さん、素敵な続きをありがとうございました。
こんな無機質な空間の中のちょっとしたコメントなのに、ドキドキしました。




「元気です。」と書いておいてなんですが、ここからは辛気臭い内容にお付き合いください。


最近「自分らしさ」とは何か・・・という疑問が頭の片隅にいつもあります。高校の時には、特にそんな疑問もなくわりと好き勝手やってきて、そこに「自分らしさ」を見出していたんですけれど。


ふと大学での自分が、「自分らしい自分を過剰に演じている」ことに気が付いてしまったとき、なにがなんだか分からなくなってしまいました。もしかして、「自分の性格」という枠組みに縛られて身動きがとれなくなっているんじゃないかと。自分自身を自分で縛って、こうあるべきという、自分につけるタイトルの方向性を間違ったまま、ただ突き進んでしまっていないかと。アイデンティティ固執することで、アイデンティティが歪んで崩れていくことに気付いてないのかもと。


そう考えたとき、簡単な解決策が一つ。「自分らしさ」とかいう何かをいったん白紙にして、いろんな人の意見に耳を傾け、よりよい人間性を獲得するよう努力すること。自分をポジティブにどんどん変革していくこと。


しかし、「なんだ、そこまで考えているならそれを実行するまでじゃん!!」とは終わらないんですね。ここで一つ大きな問題があります。それは「自分らしい自分を過剰に演じている」以前の前提として、僕は基本的に「自分が嫌いではない」という事実。別にナルシストとかではなくて、このニュアンスを分かってもらえますかね。


すると、過剰に演じていると思ったときだけはすこし控えて、あとは変わらないでこのままでいることでも解決します。つまり高校の頃に後戻りすることをはらんだ停滞。最初に提示した解決策とは真逆の解答。消極的な姿勢。


正直な気持ちを言うと、変わることで僕の悪い部分がなくなる反面、今傍にいてくれる人の言う僕の良さがなくなるぐらいなら、変わらないことで僕の悪い部分も良い部分も停滞させ、今傍にいてくれる人を維持するほうを選びたくなってしまいます。いやいや、だから君の悪いところを治せばいいんだって人にはこう返します。「じゃあ僕の悪いところって何?それは君の主観での気に入らない部分ではなく、本当に『みんな』にとっての(客観としての)悪い部分なの?」と。


「いい」「悪い」がどれだけその人それぞれかを中途半端に知ってしまった僕は、自分のなかのなにが悪で改善の必要があり、なにが善でそのままでいいのかが分かりません。もっとくだけていうなら、僕のひねくれた考え方のどこまでが「面白く」てどこまでが「不快」なのかが分からないのです。それでいて「変わったほうがいいんじゃない?」と(多分愛を持って)いってくれる人の存在が、停滞は逃げじゃないかと示唆しているようで、僕はまた思考をどうどうめぐりさせてしまうのです。


整理整頓をきちっとしろ、遅刻をやめろ、生活力をつけろ、勉強しろ・・・そんな要求なら、単純で分かるんですけれどね。最近よくいわれる「変わったら?」にはそんな単純な要素を指摘しているとはどうしても思えず、結局停滞を選んだまま、大学二年生が始まります。僕はどこに向かうんでしょうか?僕という本の表紙のタイトルは、今、何になっているんでしょうか。それは果たしてみんなが読んでくれるものなのでしょうか?


春。こんな風の強い日に。