言葉の美しさ

愛、夢、希望、自由、再会、涙…


美しい言葉と言われると、即座に思い浮かぶのは上のような言葉だろうか。
まあ個人的には、ここにぜひ「絶望」をどーんと加えたいところなのだが、
それが加わったところで、あまり変わらないかもしれない。


なぜ変わらないのかと言えば、話は簡単。僕の言いたいことはこういうことだ。
「単品で美しい言葉なんて、存在しないんじゃないか」、と。
とりあえず、最近リリースされて、みんなの心を暖め続けている「涙のふるさと」から、
言葉を抜き出してみる。こんな感じだ。

会いに来たよ 会いに来たよ 君に会いに来たんだよ

「会いに来たよ」のリフレイン。確かにひねりはないし、普段の僕を良く知っている人なら、
(つまり端的に行って、直球でロマンチックさのない歌詞が苦手な僕を知っている人なら)
「so-na君、バンプの新曲の歌詞、好きじゃないでしょ?」
と言われてもなんら不思議はないように思える。


でも結論から言って、僕はこの歌詞が大好きだ。
もちろんそれには、そのストレートな歌詞に説得力を持たせるメロディと歌声の存在も、
大いに関わってはいるけれど、今回は単純に歌詞だけのお話なので、そこは考えない。


「なら、どうして?」


「会いに来る」という言葉自体には、さっきも言ったように美しさはないと思う。
でもここでは、それを繰り返し、最後には「君に」会いに来た、と伝えている。
すると、ただ平面的な言葉だったはずの「会いに来た」をとりまく三次元、
血の通ったの登場人物が見えてこないだろうか。


目の前に居るのに、その存在を今ひとつ確信できずに躊躇している「君」と、
そんな君に「ねえ、気付いてるんでしょ?他でもない、僕は君に会いに来たんだよ」と、
問いかける素敵な誰かが。


もちろん、これは僕の勝手な解釈であって、違う角度から歌詞を見る人もいるだろう。
でもただの単語だった「会いに来る」が、繰り返して、「君に」をまとうだけで、
とても器の大きな、やさしくてどこかもどかしい言葉になるのは、確かじゃないだろうか。


結局愛だの夢だのを薄っぺらく使うのも、リアリティを持たせて使うのも、
ほんの少しの言葉のさじ加減なんだと思う。
ちょっといじくるだけで、美しくなったり、凡庸になったりする言葉。
どんな言葉でも、それがそっと抱え込んでいる隠れた意味を、
こっそり覗き込んで掴むことができるかどうか。そこにかかっている、そんな気がする。

叶えたい夢ばかり数えて 叶えた夢は泣きながらきっとどこかへ…

RADWIMPSの「夢番地」より。どんな言葉でもとはいうものの、
みんながこぞって使う分、一番最初にあげた美しい(っぽい)言葉達は、
特に薄っぺらくなりやすい。
そんな中、惜しげもなく遠慮もなくアルバムを夢とか希望とか好きとか愛とかで埋め尽くして、
それでもいやらしさや薄っぺらさを感じさせないラッド。結局それは、
叶えたい夢からふっと視点をずらして、叶えた夢を思える野田くんの力なのだと思う。