今日も僕は朝十時に起きて、それでも眠気は醒めず、
結局のところ正午まではこたつのなかで、うつらうつらしていただけだった。
そしてこたつの中で寝巻きのままジャンプを読み、
今週はテニスの王子様がないから刺激が足りないなあとか、そんなことを考えながら、
ブログに淡々とコメント返しをして、やっと着替えて歯を磨いたら時計は二時を指していた。
そして、何かやらなきゃという強迫観念に駆られた僕は、
昨日書いた小説のような文章の続きを書くという創作活動と、
MOTHER1+2を天秤にかけ、MOTHER1+2をやりはじめた。いつもと同じ選択だ。
正直MOTHER1のほうはレトロ感覚が強すぎて、あまり面白くないが、
「シリーズが繋がっているからすべてやらなきゃいけない」という考えから、義務的にこなしている。
そしてもっと言えば、僕にとってはゲームという媒体自体が、
暇な時間を寝て過ごすよりも有意義だという判断からする、義務のようなものなのだ。
結局今日において、僕自身にとって心底エンターテイメントだと感じられた時間は、
ゲームを中断せざるおえないタイミングでかかってきた彼女からの電話と、
家庭教師のバイトに行くまでの、まだ少し肌寒くて透き通った空気の向こう側に、
夕焼けを見た自転車の道のりだった。
友人の中で、大真面目な顔でこう言った人がいる。
「僕は何もやることがない春休みは苦手だ。早く大学が始まって欲しい」
「僕は趣味がなくて欲しいものはないけれど、時間つぶしと社会勉強の為にバイトをたくさんする」
こういう意見を聞くと、バイト嫌いで家に引きこもって何かをするのが好きな僕としては、
どうせ社会人になったら働かなければいけないのに、
何故こんなにも自由な春休みにあえて、自分から自分を縛るようなことをするのか、
もしくは自分を縛るような課題がたくさんあることを望むのかと思ってしまう。
しかし、果たして僕は何もすることが与えられず、何時までも寝ていていいと言う状況に、
満足感と充実感をいっぱいに得ているのだろうか。答えは否、だ。
結局のところ常に何かをしなければならないという強迫観念に苛まれていて、
どちらかというと、バイトという義務的行為に向かう道中に、
この日一番の充実感を感じているのだから、話は厄介だ。
結局のところ間違っているのは僕のほうであって、やることが課されているほうが楽しいのか。
宿題はあったほうがよかったのか。確かに大学生の春休みより、
鬼のように宿題があった高校生の春休みのほうが充足感も満足感もあったような気もしてきた。
でも、どうしてこれほどまでに僕は何かをやることを欲しているのだろう。
生産的なことをしなきゃ、という人を斜めから見据えているはずが、
自分自身、生産的なことをしていないと何か不安だという気持ちを抱えているのは何故だ。
ここであえて、考え方をひねくれた方向に持っていってみる。
僕がそういった強迫観念を抱えているのは、今まで生きてきた環境のせいなのだ。
何のことはない、今まで中学、高校という多感な時期に、
鬼のように宿題を出された記憶が脳にこびりついているから、
そして受験生という時期の勉強に追い立てられる記憶が脳にこびりついているから、
まったくもってそういう強迫観念から解放された大学の春休みでも、
常に勉強の代わりになる、何か身になること、生産的なことを欲し続ける。
高校時代、こんなことがあった。
長かったテスト週間が終わり、家でゆったりと昼寝をして、目を覚ました時に、
瞬間的に「やべ、寝ちゃった。勉強しなきゃ!」と心の中で叫んだ。
たった二週間でも脳はこうやって強迫観念を覚えているのだ。
小学校、中学校、高校と蓄積されてきた宿題や勉強への強迫観念が、
生産的なものへの反射的な渇望として残っているのもおかしくないように思える。
そうか、そうだったのか。結局は社会に刷り込まれていたんだね。
ならば、長期休業中もできるだけ生産的な行動、身になる行動をしようという
世間的な意見に「いっちぬーけた」をして、
バイトは好きなことができる金額が稼げるぎりぎり最小限まで抑え、
毎日かたつむりのようにこたつに入って、漫画かゲームかパソコンで遊ぶ僕は、
極めてパンク的な行動をしていることになる。
なんていったって、自分の脳内に刷り込まれた世間的常識に反抗しているのだから。
♪教育で刷り込まれた価値観なんてクソ食らえ!
それは偉い人が勝手に刷り込んだ価値観さ!
本当にしたいことが「何もしないこと」だっていいんだぜ!
僕は今すぐにバンドを組んで、駅の構内でそうやって叫ぶべきかもしれない。
早く、ギターを買ってこなくちゃ。
だが少し待て、その考え方は結局、ニートを肯定していることに他ならないぞ。
ここで、僕に一つのイメージが浮かぶ。
テレビ画面の向こう側で、あるニートが、「働いたら負け」と豪語している画像だ。
僕はそれを見て、「こいつ、なんてパンクなんだ!」と思ったかといえば、違う。
嫌悪感のつばをテレビ画面に吐きかけていたことを記憶している。
度合いが違うとはいえ、彼も「いっちぬーけた」をしているはずなのに、
何故僕は彼に共感の握手を求めに行かないのか。
答えは意外と簡単に見つかった。それは結局、度合いが違うからだ。
僕は大学に通っていて、今は長期休業でもこれからは働く運命だし、
親のすねをかじり続けて生きていく気も毛頭ない。
時期が着たら社会に貢献するのだから、お前らと一緒になんてしないでくれ!
あれ、おかしいな。
自分に、これから何かやることが与えられているのを誇りながらも、
いざ長期休業に入ってやることは、頭の中の叫びを必死に無視して、ニート的な生活。
最終的に僕はどちらの領域に達したいんだ?
素直に脳内の強迫観念を肯定して、やることを山済みにすればいいのか。
いや、でも僕はスケージュールが常に埋まってないと不安なOL的心理状態を嫌悪していたはず。
まてよ、それでいてスケジュールが白紙の状態だと何か寂しさを感じるのも確かだ。
僕は何処に行けばいい?誰と手をつなげばいい?
僕は何処に行きたい?誰と手をつなぎたい?
結局、つまらない結論だが、バランスが大事なのかもしれない。
「何かしなきゃいけない」という強迫観念の出所が、日本人という民族によるものか、
今の教育制度によるものか、それとも将来に対する漠然とした不安によるものか、
もともと人間に備わった生存本能の成れの果てか、
仮説はいくらでも出てくるし、それを証明する手立てなんてものはない。
だとしたら、僕が考えなければならないことは、その「何かしなければいけない」という、
生産的なことを望む気持ちとどういう距離で付き合って行けばいいのか、
それを考えることだ。
まったくもって無視すればニートになる。すべて肯定すれば仕事の虫になる。
そのどちらも嫌だから、長期休業はニートみたいに過ごして、
それでも授業が始まるとそれなりに真面目に受け、単位はなんとか抑える。
そうやって暮らしていたんだったっけ。
そして、友人の姿や言葉を受けて、そのバランスに時々悩んで、
疑問を「何かしなければならない」という強迫観念の正体、とか訳の分からないものにすりかえ、
こんな長ったらしい誰も読む気のしない、自己満足な文章をブログに書き殴る。
強迫観念とかニートとか仕事とかそういうものをすべて超越して、
一本の光る線のような「本当にやりたいこと、人生をかけたい何か」が見つからない僕だから。
そして僕はこの文のすべてを投げ出して、春の長期休暇の終了を願った。
自分にそのバランスを求められると、どうしても面倒臭さが先に来ちゃうからさ。
僕はやらされていることの隙間を縫って、好きなことを見つけることが大好きなんだよ。
もういい、これ以上自分を断罪するのには耐えられない。
そういうことにして、今日はもう寝かしてくれ。