剣術漫画についての考察(inspired by シグルイ)

(これは、5/8に書かれた日記です。諸事情により日付を移してあります。)
GWといえば、僕はシグルイを読破した。


シグルイとは、最近ネットでよく目にするようになった、残酷かつグロテスクな剣術漫画だ。その独特の台詞回しから、パロディもつくりやすいらしく、ジャンプ感想を専門にしているサイトさんなんかもよくネタに使っている。そこで僕は興味を持ち、読んでみることにした。


もともと、剣士や侍が出てくる漫画には目がない僕だ。ONE PIECEではロロノア・ゾロが一番好きだったし、るろうに剣心も中古で集めて全巻持っている。日本刀と言うのは、どこかストイックであり、ひどく格好いい武器だと思う。


だが、ある瞬間から、僕は漫画における斬り合いのリアリティにひどく疑問を持つようになった。きっかけは、あずみという漫画を読んでいたとき、

「刃こぼれしたり折れたりするから、絶対に受け太刀をするな」

という台詞を読んだ後だったと思う。なるほど、人間の首を一刀両断できるほどの切れ味を誇る日本刀だ。ものすごい力で振り下ろされた二つの日本刀があったとしたら、よくある時代劇のように、チャンバラなどできるはずもなく、すぐに折れてしまうに違いない。


すると、途端に少年漫画の剣士が、非常に嘘っぽく思えてきてしまった。僕は「斬り合い」ではなく、「チャンバラ」をして「キンキン」言わせながら剣をぶつけ合っている絵を見るたび、がっかりしてしまうようになった。


そんな中、僕はシグルイに出会った。正直なところ、絵のグロテスクさや設定の異常さ(あれほど狂人ばかりがでてくる漫画もあるまい)は厳しかったが、気付いたら僕は全巻を読み終わっていた。吐き気に似た高揚感が身体を覆っていた。


シグルイの剣術には、圧倒的なリアリティがあった。一撃で人は死ぬ。ならばその一撃をどれだけ速くできるかのみに命をかける、そういうロマンがあった。そうだ、剣で身体を撫で合って、血まみれなまま戦うなんておかしい。特に伊良子清玄が「無明逆流れ」で、虎眼流の剣士を「一撃の下」血祭りにあげていくところは、グロテスクながらも、すごい迫力だった。剣士の持つ間合いとは、それすなわち死の領域なのだ。


もちろん、だからといってすべての剣術漫画に、シグルイのような残虐な戦いを期待しているわけではない。少年漫画にはリアリティがなくても、高揚感のあるはったりがあればいいと思う。だが、はったりをするにしても、ある程度の下調べや、リアルを喚起させる工夫が必要だと思うのだ。


ONE PIECEで、ゾロが「三十六煩悩砲」という飛び道具を身につけたとき、僕はかなりがっかりした。大いなるはったり…確かにかまわないが、剣士を名乗るものが間合いすら気にせず戦うようになったら、戦いの何を楽しめばいい?僕は飛び道具を使うような相手にも、剣士としていかに間合いを詰めるかを工夫するゾロ見たかったのに。


格好いいという理由か、今の漫画には剣を使ったキャラクターがたくさん出てくる。ジャンプ漫画だけでも、ONE PIECE銀魂BLEACH、リボーン、侍うさぎetc... そのすべてが剣術や斬り合いメインに話を進めているわけではないのは分かる。でも、どうしても僕は思ってしまう。いくら小学生も見るジャンプとはいえ、バトルメインの漫画が斬り合いをするなら、剣士としての「間合い」を、日本刀と言う武器の「一撃の重さ」を、戦いに織り込んで欲しい!


とにもかくにも、剣を扱う漫画はたくさんあるのに、「剣同士をぶつけ合う戦い」が当たり前なのは、いくらフィクションといえど何か違う気がしたので、こんなコラムを書いてみた。「そういえば、真剣って折れるよな」という共感が得られればうれしい。


そして、もしあなたがグロテスクなシーンに耐えうるのならば、ぜひシグルイを読んでみてほしい。斬り合いとは何かが分かると思う。そして死に狂う人間の美学が、心を震わせると思う。漫画喫茶帰りの電車で、僕は眠ることもせず、脳内で虎眼と伊良子の戦いを反復していたのだ。