Waiting.

THE WORLD IS MINE


今日は彼氏が、久しぶりに私の元にやってくる。空は遠く高く晴れて、その中を寂しそうな白い雲が浮かんでいる。私は大きなヘッドフォンをつけて、マフラーを巻いて、ヒロキが来るのを待つ。アイツは時間に正確だ。遠くから電車に乗ってやってくるのに、必ず約束の時間に付く電車に乗って現れる。だから私はヒロキのことを安心して待っていられる。


待つというのは、基本的には苦しいことだけど、そこに確信があればとても柔らかな時間に変わる。約束の一時間前、きっかり午後二時にこの駅のベンチに座って、携帯用CDプレイヤーのスイッチを入れる。アルバムは決まっている。くるりの「The World Is Mine」。このアルバムのいいところは、きっかり60分だということだ。私がこのCDを聞きながら、目の前を通り過ぎていく電車を眺め、通り過ぎていく人を眺め、寂しそうな白い雲の行方を気にしていると、プレイヤーがシュウという音を立てて止まる。そして目の前にはヒロキが立っている。久しぶりの挨拶はいつもきまっている。


「ヘッドフォン、でかっ!」


そして二人は笑う。その瞬間、東京の郊外にある、この小さな駅は私達のものになる。


アルバムが四曲目に入った。私の一番好きな曲だ。終わらないビート、溶けていく電子音、どこか空っぽで切なくて、でも鳴り止まないダンスミュージック。私の身体は少しだけ揺れて、このままずっとこの曲が続いていけば良いのに、あ、でもそれじゃあヒロキに会えないや。心配する必要もなく、気付くと曲は終わっている。


駅に切り取られた秋の空が好きだ。天気は快晴がいい。そのほうが浮かんでいる雲が寂しそうに見えて、共感できるから。でも私が追いかけていたまんまるな雲は、飛行機雲に境界線を引かれて、真っ二つになってしまった。かわいそう。


アルバムが後半に差し掛かると、優しい曲が増えていく。けれど私の気持ちは、高校生の時に習ったあの二次関数のグラフみたいに優美な曲線を描いて上昇していく。もうすぐヒロキに会える。私の下宿先に向かう道の途中で、彼の背中に抱きつきたい。きっとあの、ほのかな煙草の香りがする。彼に抱きつくあの瞬間を思い描くことで、私は生きている。悲しくなんてない、むしろ世界中にあやまりたいくらいだ。わたし、幸せすぎてごめんなさい。


馬鹿みたい、と自分の思いに自分でつっこみを入れてみる。わたしなんかに謝られたらみんなに怒られちゃう。そこまで美人でもない、頭も良くない、なんとなく何かが変わる気がして上京して、そこでヒロキに出会うまでふわふわ水面の上を漂う浮き草みたいな生活を送ってきた。いや、今だってこうしてふわふわ浮かんでる。でも、私はまわりの浮き草とはちがう。彼のいる向こう岸を目指して流れているから。


最後の曲。「PEARL RIVER」と名づけられたその曲は、最後にはボートを漕ぐ音だけになってフェイドアウトしていく。それは郷愁とか、センチメンタリズムとか、そういうのを狙って入れられた音かもしれない。でも私にとってそれは、彼のいる向こう岸目指してボートを漕ぐ音。とても待ち遠しくて愛おしい音。あの音とともにCDプレイヤーが止まるのとほぼ同時に、私の目の前に電車が止まる。


彼は、その電車から降りてこなかった。


私はため息を付く。今日はベストタイミングじゃなかったな。でも、電車が遅れたり、乗り継ぎが失敗したり、いくらでも原因に予想は付く。私は音楽を流さずに周りの音を遮断し始めたヘッドフォンをしたまま、またぼんやり空を眺める作業に戻る。今日は晴れすぎといえるくらい晴れていて、雲が一つも見つからなくなっていた。


ずっとぼおっとしていた気がした。まだ十五分しかたっていなかった。私はまた「The World Is Mine」をはじめから聞き始めた。くるりは嘘つきだ。ちっともこの世界、私のものじゃない。携帯電話はいつものように家においてきた。時間は間違えてないはずだ。いっつもこの午後三時ちょうどの電車で彼は来る。……だから、ちゃんと確認せずに今回も三時だと思い込んでいたのかもしれない。不安が私の胸にまとわり付いてくる。このままあと45分も待つのかな。馬鹿だな、今日はちょっと朝に野暮用があったから、四時だってメール送ったろ。


待つ時間が不安と仲良くなると、私はひとりぼっちになる。素敵な時間をくれていたはずのアルバムが、耳障りにカチカチと音を刻む時計に思えてくる。まだ四曲目なの? いつになったら四時は来るの? いつになったら私はヒロキの強い力で抱きしめてもらえるの。


でもここから家に帰ることは出来ない。携帯電話を取りに帰っている間に、彼が駅に降り立ってしまったら? 私はその時に、いつものように「ヘッドフォン、でかっ!」って言ってもらえなくなる。待ち焦がれた瞬間を逃してしまう。私はここにいて、大きなヘッドフォンをして彼を待っていなければいけない。それは何よりも大事なことなんだ。


下を向いた。目を閉じた。眠っているふりをした。誰も見ていない、でも、私は眠っているんだって、私を騙さなければならないから。それでも、電車の近づく音が聞こえてくるたびに、すぐに顔を上げて、降りてくる人たちを隈なくチェックした。ヒロキがいない。ヒロキはいない。


「……キョウコさん? こんなところで何をしてるの?」


そうやって声をかけてきたのは、私の大学の友人だった。私はあからさまにうろたえた。あなたがそうやって目の前に立っていると、ヒロキが見えない。私をヒロキが見逃すかもしれない。やめて、どうして、私に話しかけるのはやめてよ!


「そっか。じゃあ、また大学で」


気のない返事ばっかりして、もはや何も鳴らしてないヘッドフォンをつけっぱなしにしていると、彼は手を振って私の元から去っていった。ヒロキを見逃していないだろうか。私は不安になった。もう空が赤みを帯びてきている。夕焼けがこんなに悲しい赤色をしてるなんて、知らなかった。泣き出しそうだった。誰もいない駅で一人で泣き出しそうだった。ごめんねヒロキ、もう限界だよ。きっと携帯電話に「遅れる」ってメールが来てるんだよね。メール返さなくて不安にさせちゃったね。今から返すよ。ごめんね。


私はマフラーを巻きなおして、帰り道を早歩きで帰った。真っ赤な夕焼けが真っ黒な影を大きく大きく引き伸ばしていた。私の下宿先ってこんなに遠かったっけ。今この瞬間に、ヒロキが駅についていませんように。


そして家について、携帯電話を開いて、私は言葉を失った。
携帯電話には何の連絡も入ってなかった。


「土曜日の午後三時、いつもの時間に付くよ☆」


私は真っ赤な光の差し込む部屋の真ん中に、携帯電話を握り締めて立ち尽くしていた。
夜になっても、次の日の朝になっても、その次の日の朝になっても、ヒロキからの連絡が携帯電話を震わすことはなかった。