プリンをあげるよ

ちょっと気まぐれに「はてなっぽい」ことを書いてみたくなったので書いてみる。



今、ニコニコ大会議で起こったことが「いじめ」か「いじり」かについて、わりと熱く語られてるんだけど、(事の発端はここみたいだ。それにid:thirさんがこの記事で反論して、の流れ。(7/9)追記:さらに、「いじめ」と「いじり」の違いは何かというエントリが投稿された)その類の議論を見ると思い出すことがある。


高校三年生。みんな受験のストレスか「楽しいこと」に飢えていて、エンターテナーな素養のある人たちが、なにか楽しい事はないか、楽しい事が言えないかと探していた。そして、その楽しいことの中に「いじり」から来る笑いもあった。僕が見たのは、どちらが上とか下とかのない、友人としてのいじりだったけれど、やはり時々度が過ぎている時もあったと思う。


そして、バレンタインの日。大講義室で補修を受けている時に、そのいじる側の男の子が、なにやら包みを持ってきた。前に「料理出来るよ」と高らかに公言したことが、ネタじゃないことの証明として、彼は手作りプリンを持ってきて、リクエストした人たちに配った。わりとよくできていて、おいしそうだった。


そして、プリンをリクエストした人全員に配り終わった後、不思議なことにプリンは一つ余っていた。自分で食べるのかと思うと、どうやら違うらしい。彼は、ちょっとだけ恥ずかしそうにいつも「いじっている」男の子の元へと歩いていった。


「いつもいじってごめんな。だから、これ」


そして、その最後の一つのプリンを、彼は差し出した。いじられる側だった彼は、それを嬉しそうに受け取り、「おいしいよ、これ」と言った。心が暖まる光景だった。


……結局、どれだけ友人としての信頼関係に基づいた「いじり」でも、やりすぎたり、不快にさせてしまうことはある。だから僕は、いじる側の人間はそれを自覚して、時々こうしてプリンをあげるような、そんな優しさを持つようにするといいと思う。(買収すればいいわけじゃないよ、プリンは心配りの象徴ね)むしろ、理想的なことを言えば、そういう心配りができない人はいじる側にいるべきではない、ぐらいに思う。


いじられる側だったことのある人間として言えば、いじる側が「お前は大切な友達だと思ってるよ」、と時々優しさを伝えてくれるだけで、結構救われるものだ。


論点がニコニコ大会議とはずれたのは分かってるけど、「いじり」に関して紹介してみたいエピソードだったので。というわけで、「ハゲwww」とコメントした人は、あとでそのおじさんの家に手作りプリンを持っていくといいと思う。