NieR: Automata をクリアしたよ ★★★★★

GWヲ ゲームニツイヤスナンテ クダラナイト オモイマスカ

ハイ

▶︎イイエ 

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出典:NieR:Automata | SQUARE ENIX

ネタバレ ヲ フクミマスカ

▶︎イイエ

かのドラクエ堀井雄二はどこかのインタビューで、ゲームというのはシナリオ、ゲーム性、音楽、グラフィックなどいろんな要素の組み合わせでできており、一つでもダメなところがあるとゲーム自体の面白さを損なってしまうと言っていた。これは、ゲームが双方向でできている稀有なメディアだというところに起因すると思っている。コントローラーを握り、キャラクターを操作する。そこに没頭するためには、少しでも違和感がある要素があってはダメなのだ。それはほんの些細なボスキャラの調整にも起因しており、ストーリーの中で「あれは最強だ」「勝てる気がしない」と語られてもそれが拍子抜けするぐらい弱ければ、プレイヤーは違和感を禁じえない。

 

NieR:Automata はその全てがとても高次元でまとまっているゲームだ。画面の向こうのプレイヤーを廃墟と化した地球を虚しくアンドロイドが彷徨う世界にいざない、その退廃的で哲学的で物悲しい世界を最高の音楽が彩る。セーブシステムすらも物語と整合が取れている。ヨコオ氏の唯一無二の世界観が、ついにこの次元でまとまったことが、このゲームのスマッシュヒットの要因だと思う。

 

キーパーソンであるディレクターのヨコオタロウ氏は、以下のインタビューで「ビデオゲームは現実を模倣する」と語っている。

www.famitsu.com

 

僕はこの言葉をそのまま鵜呑みにすべきではないと思っているので勝手に言い換えると、「何を現実と模倣して」「何を現実と模倣しない」かを選ぶことがゲーム制作である、ということだ。これは当たり前の話だ。オープンワールドのゲームを作り、いざプレイヤーが自分の家から出て、モンスターのいる区域まで歩いて(車に乗ってもいい)1時間かかるゲームを誰がやりたいだろうか(しかし、現実を模倣するならば、ライオンの住処まで10分の場所に誰も住まないだろう)。

 

そして、彼のゲームはその選び方が悪意にあふれている。

 

彼の手がけたゲームは、ドラッグオブドラグーン(以下、DODと略す)にせよ、ニーアにせよ、戦国無双形式のアクションRPGである。このゲーム性において、プレイヤーはある種、一騎当千の殺戮者となって「敵」を倒しまくる。そこに快感を得るためには、プレイヤーには罪悪感を芽生えさせない方が良い。敵は倒れるとしゅっとエフェクトを伴って消え、断末魔を叫ぶこともなく、血を流すこともない。プレイヤーの快感を損なわないように、現実を模倣しないことを選ぶ。だが、彼のゲームはそうではない。敵は血を流し、イタイ、イタイと訴え、断末魔を叫ぶ。それが現実だからだ。

 

ニーアオートマタにおいて、プレイヤーは2Bとなり、機械生命体と呼ばれる、エイリアンの手先の素朴なロボットを殺しまくる。しかし、その時彼らはイタイと悲痛に言い、時には「アンドロイド、許さない」となじられる。随伴者は言う。彼らは意味のない言葉を羅列して再生しているだけだと。だから、気に病む必要はないのだと。僕の心には、疑問符が生まれる。本当にそうなのか。ストーリーが進むほど、機械生命体の彼らに、心を感じ始める。彼らもプレイヤーが操作するアンドロイドと同じように、感情を持っていると思わせる。イタイのはプレイヤーの心も同じだ。

 

ニーアレプリカントでもDOD3でも非常に評判のよかった岡部啓一さん(MONACA)のクラシックを基調とした音楽がこの虚しい、辛いバトルを彩る。ここで得る没入感は、戦国無双形式の一般的なものと質が異なる。少し物悲しい繰り返しを基本としたクラシックの中、「敵」を「殺しまくる」プレイヤーが得るのは、本物の戦場を模倣したかのような、麻薬じみた高揚感。相手も感情を持った一人の生物であると言うことを忘れて、機械のようになって、心を無にして殺していく。それが少しだけ、気持ちよく「なってしまう」そんな感覚。

 

こんなゲーム体験が、ニーア オートマタにはそこかしこに溢れている。主人公がアンドロイド、ということがこんなにうまくハマるのは、ヨコオ氏も完全に予想できなかったのではなかろうか。メニュー画面も、ゲーム世界で不自然にキラキラ光るアイテムも、目的地の印も「アンドロイドの視界」と考えれば納得がいく。僕らはアンドロイドの視界から、A.D.10000を数える遥かな未来に、前時代的な代理戦争に明け暮れる廃墟の世界を体験するのだ。そして、罪のない機械たちを、ひたすらに殺していき、最後には自らの悲しい運命を知る。

 

僕は、優れたクリエイターは時代の空気感を敏感に読み取り、同じテーマを描いてしまうことがある、と考えている。今回もそうだった、無気力さが支配する現代、2017年のゲームでは、ダンガンロンパ V3も、この虚しさを描いていた。全てが手のひらの上で、主体的に選んできたと思ったことも仕組まれていて、それで、あなたはどうしますか? ここで言うあなたはプレイヤーそのものだ。あなたは、それでも、まだもがくのか、それとも「こんなゲームに まじになって どうするの」と投げ出すのか。

 

ダンガンロンパはこの問いかけがシナリオ上強引だった部分があったが(伏線は緻密だが、それ以前の濃いストーリーをも食ってしまうほど強烈だったため、体験を損なったと感じたプレイヤーがいたのだろう)本作はそれがとても自然だった。だから、僕は自然と選択肢を選ぶことができた。プレイした後にふと、少しづつ心から滲み出てくるようなしみじみとした感動とともに。

 

本当に、素晴らしいゲームだ。去年プレイしていたら、ダンガンロンパ V3とどちらを一位にするか迷っただろう。昨今、スマホゲームから大作RPG復権しているように感じている。本作も世界で250万本売れた。GWに半額になって買ったプレイヤーもいるだろう(そんなプレイヤーに向けて僕はこの文章を書いている)。

 

ヨコオ氏がDODからずっと描いてきた、本来一般受けが難しい退廃的なテーマが、遠未来、廃墟、ロボットという世界によって耽美性を得て綺麗にハマり、知る人ぞ知るインディーズバンドが一気にメジャーデビューしたかのような本作(バンドだとすると悪い意味でも使われるが、今回は最大級の賛辞として使っている)。痛みと虚しさがこれでもかと詰め込まれているのに、なぜか美しくて心惹かれてたまらない世界の体験。この2018年のGWに半額になっているのにプレイしていないなんて信じられない。このゲームを1年放っておいた自分も信じられない。