君の名は。 感想「みんなの新海誠はみんなが望んだものだったのか」

君の名は。

客層

今回はご存知の通り、普段の新海誠の三倍ぐらいの宣伝が打たれていて、これまでの客層から広げようという意思をありありと感じました。実は宣伝も最初はこれまでの新海誠的なモノローグと映像だったのが、ストーリー重視のものに途中から変わりまして、意識的にやっていると思いました。

その宣伝攻勢の結果、僕の隣には中学生が座っていて「やべー髪型が決まってないよ」とか生意気なことを言ってたり(これからデートですか?)、隣にはカップルが座ったりといつもの新海誠作品と客層が違うことをありありと感じました。髪の毛が雨でボサボサになっている人が隣に座っててごめんなさい。いや、お気に入りの帽子なくしちゃってさ。。

新海誠村上春樹

僕がこの新海誠の客層の拡大に不安を覚えていたのは、彼の作家性にあります。彼は非常に村上春樹との共通点が多く、出てくる男主人公がうじうじしていて、好きって公言すると女の子に嫌われます。そして、村上春樹がその文章の柔らかさで非現実的な会話を自然にすることと同様に、新海誠はその背景の綺麗さでリアリティを柔らかくします。

ただ、村上春樹の作品で展開される物語は骨太で、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドのメタファーに富んだやみくろとの戦いや、ねじまき鳥クロニクルノモンハンの戦争の生々しい描写があります。これが、ただの妄想作家とは評価されていない彼の今の立ち位置を決めていると思います。

しかし新海誠はまだその、批判を一蹴する骨太な部分を見つけてはいない気がしていて、それが「君の名は。」の宣伝から感じられる「ポップなストーリー」なのかと思うと違う感じがして、一抹の不安がありました。

参考(宣伝動画):


いつもの新海誠調。


ストーリー重視。ファンからすると違和感がある。

新海誠の悪いところが全て治っている序盤~中盤

しかし、それは杞憂だったと思わされるぐらい序盤と中盤は良かったです。

最初にアニメのOPみたいに主題歌とハイライトシーンを切り取った映像を挟むことで、新海誠のロマンチックな描写を一気に見せ、その後は物語中心の演出で例の綺麗すぎる背景をあくまで添え物として機能させていたこと。

入れ替わりの導入に工夫があり、最初は男の子が入れ替わって女の子として一日を過ごした部分をあえて飛ばすことで、使い古された入れ替わりというアイディアを新鮮に見せていたこと。

新海誠背景に雲が増え、雨が降りはじめる中盤からさらにすばらしく、入れ替わりに三年のタイムラグがあることが明かされ、それがすれ違いを生み、新鮮で切ない物語が語られます。

後から考えると、三年もずれて入れ替わるのに、どうして時間のズレに気づかなかったんだとツッコミたくもなりますが、見ている最中はそのことより主人公二人のすれ違いの切なさにうっとりしていました。

ちなみに、僕はツイッターにいた映画好きの方からいろいろ不穏な噂(ネタバレではない)を聞いた上で本作を見に行っており、普段より雑念にまみれながら見ていますが、中盤が終わる頃にはしっかり夢中になっていました。

「ごめんなさい、期待通りの感想は書けないかもしれない。大絶賛かも」

そんなことすら思っていました。

終盤に夢から覚めてしまう

しかし、その集中力が最後まで続かなかったのです。いや、終盤も主人公二人が三年の時間を超えて出会うシーンは素晴らしかったです。ああいう非現実的なシーンでは新海誠背景は最高にマッチし、可愛い二人の描写と相まって最高のロマンチズムを演出していました。これは新海誠の描きたかったシーンの一つの完成系と言っていいと思います。

そのあとです。二人はまた元の時間軸に戻り、入れ替わりも解消してしまいます。ここからは、現実に戻り、目の前に迫り来る災害を克服しなければならないシーン。でも主人公の女の子はここで迷ってしまいます。

「君の名前が、思い出せない」

いやいやいや、作中の友人にも突っ込まれてましたが「そんなこと言ってる場合かよ」ですよ。友人に犯罪ぎりぎりの行為をさせてまで、入れ替わりで知ることができた未来の災害からみんなを救おうとしている時に、いつまでロマンチズムを引きずっているのですか。

特に主人公の女の子が男の子に書いてもらった手の名前を確認したら「すきだ」って書いてあったシーン。ここでは野田洋次郎の甘い歌声が流れてくるんですが、

「ちがあああああああう!!!!」

と僕は劇場で叫びました。心の中で。

まあ、百歩譲って「すきだ」って書いてしまう男の子はいいです。でもそこで女の子の反応と野田洋次郎の甘い声は違うでしょ。むしろそのメッセージで「このアホオオオ」となって我に返って欲しい。目の前の災害を救うために、町長のお父さんを説得することに奮起して欲しいのです。

確かに、これは僕個人の例です。ここで特に違和感を感じなかった人もいるでしょう。しかしあえて言いますが、

ファンタジー > リアリティ(への野暮なツッコミ)

だった序盤~中盤に比べると、終盤は、

ファンタジー < リアリティ(への野暮なツッコミ)

となっており、明らかに精彩を欠いていたと思います。

街の人を助けることより予感を信じて会いに行く二人。
過去に「私も入れ替わったことあるよ」と言うのに、災害のことは信じないおばあちゃん。
大事な説得なのに、一切語られない女主人公と町長である父親とのやり取り。

いつもの新海誠作品ならばこんなに伏線を張り巡らせた緻密なストーリーを持っていないので、これでもいいのかもしれませんが、今回はきちんと曖昧にせずにストーリーを紡いでいるがゆえに、この辺りの粗が目につきやすくなっています。最後は社会人になった二人の再会シーン。

もうわかるのです、今回の新海誠ならば二人の出会いまでちゃんとやってくれるのは。きちんとポップなストーリーでハッピーに締めてくれるのは。だから、そんなにじらさなくていいのです。最後に二人が出会うシーンまで、どれだけすれ違いさせるつもりですか。

こうして、僕は最後の最後で、夢から覚めてしまったのでした。

みんなの新海誠はみんなが望んだものだったのか

まとめると、この作品の賛美は以下に集約されると思います。

「最後までリアリティが気にならずにそのロマンチズムに夢中になって見られたか。」

すでにこの映画はシン・ゴジラを超える好スタートを切っており、ツイッター上の反応も上々で、もしかしたら僕は最終的に少数派になるかもしれません。これからは、新海誠作品は、(僕含む)こじらせたオタクのものではなく、みんなに訴えかけるポップネスを持った作品として語られ、新海誠が好きだと言っても女の子に怪訝な目を向けられなくなるかもしれません。

でも、本当にそれでいいのだろうかと、僕は思います。

終盤に精彩を欠いていた部分は、彼の必然のようにも思えるのです。
彼は本作でポップなストーリーを描ききり、3.11.以降の災害をもテーマに組み込み大衆に訴えました。

けれど彼が描きたいのは最初から一貫して、男女のすれ違いから生まれるロマンチズムであり、今回もそれが主題だと思います。そうなると、丁寧に練りこまれたストーリーはそれを描くためのつじつま合わせとも言えます。

だったら。ストーリーなんて添え物で、雨の日だけ出会える女の子とか、そういうファンタジーを、美麗な背景で描き切ってもいいじゃない。「言の葉の庭」のように。そういうやり方であれば、今回の終盤のような曖昧な描写が一定のファンタジー効果を生むはず。

みんなの新海誠になること。それ自体は僕は歓迎です。けれど、「新海誠らしさを要所要所のキーとして使いつつ全体としては薄め、物語を緻密に構築する」という方向性には疑問があります。

僕の疑問については、彼の次回作の方向性が、答えを出すのかもしれません。