ダンガンロンパV3をクリアしたよ

【PSVita】ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期 SpikeChunsoft the Best

(別館の2017年の記事の再構成です)

 ネタバレ全開です。これから 1mm でもこのゲームをする可能性がある人は、以下の目次をクリックせず、そのままそっとこのブラウザを閉じてください。

 

ノックスの十戒

 推理小説にはルールがある。

ノックスの十戒 - Wikipedia
ヴァン・ダインの二十則 - Wikipedia

 上記は推理小説の基本となるルールである。これはすなわち、推理小説がフェアであるためのルールであり、このルールに則った推理小説において、読者は犯人当てゲームとして推理小説を楽しむことができる。つまり、結末前に犯人を予想するのだ。

 作者は頭を捻らせ、魅力的な登場人物が織り成す難解なトリックによって犯人がわからないまま、読者がページを読み進めていくように設計する。すぐ犯人がわかったらつまらない。作者 vs 読者がフェアプレーの精神に則って犯人当てを楽しむ。推理小説の醍醐味の一つだ。

 しかし、読者も暇ではない。推理小説の犯人当てのために p.80 までで読むのをやめて、登場人物のアリバイをまとめたり時系列表を作ったりする時間がある人は少ないのだ。魔人探偵脳噛ネウロの作者は、一巻表紙裏のコメントにこう書いている。

 「多くの人が推理小説を読むときに犯人を勘で当てるそうです。」

 さらに、推理小説のトリックはすぐに飽和する。複雑で怪奇で珍妙で意外なトリックはどんどん消費されていく。ミステリの黄金期たる1920年代にすでに、アガサ・クリスティという推理の女王は、以下のルール違反すれすれのトリックを有名な著作で使ってしまった。

・容疑者が全員犯人
・物語の語り部(主人公)が犯人
・登場人物が全員死亡(犯人の手紙で後から犯人が分かる)

 このゲームが発売されたのは2017年である。これらの推理小説のルールギリギリを攻めるような意外性は消費され、これを使ったところで読者を容易に驚かせることはできなくなってしまった。そんな心が麻痺した僕らを驚かせるために、仕掛けは極北に至った。清涼院流水は「コズミック」で密室殺人の概念を壊したし、挙げ句の果てに西尾維新は「萌えキャラが犯人」などという搦め手を使って僕のようなオタクを絶望に叩き落したりした。だってもう、語り部が犯人ぐらいじゃ驚いてくれないんだもん。*1

 つまりダンガンロンパ清涼院流水以降の流れに従っている。小高さんの悪意溢れる作風は、戯言シリーズの頃の西尾維新と重なる部分があると僕は思う。軽くヴァン・ダインの二十則を読んでみてほしい。「超高校級の能力」を使ったり、登場人物全員に動機をモノクマが配ったりする時点でもはやプレイヤーはまともに推理することはできないのだ。

 だから僕は今日も、推理パートで出てきた証拠から、なんとなく勘で予想しながら犯人当てに臨む。そして、僕のその推理に対する不真面目な態度をもってしても、驚いて手が震える展開を、悪意たっぷりにダンガンロンパは用意するのである。

これまででもっとも悪意に満ちた第1章

 そして第1章である。ここで使われた仕掛けは以下である。

・萌えキャラが犯人
・物語の語り部(主人公)が犯人
・裁判中にプレイヤーの操作キャラが変わる

 お分かりだろうか。犯人は僕(というか私)である。学級裁判(念のため説明するが、登場人物たちが会話しながら犯人を当てあうゲームである。犯人が当てられなかったら犯人以外全員死ぬ。っていうか、この解説が必要な人はこのゲームを知らないってことで、これからのネタバレ全開の展開を読むってことだね。OK。そこまでの覚悟があるならば止めはしない)中の僕の驚きを想像してほしい。

 「えっ、犯人って私?」

 もう途中から混乱しっぱなしである。いつの間にか、操作キャラ変わってるし。しかし、ダンガンロンパの素晴らしいところは、この意外性全開の搦め手トリックを使っても、決してプレイヤーの手を離さない丁寧さである。トリックは丁寧じゃないが、プレイヤーに対する姿勢は実に真摯である。突然僕が全然感情移入できないキャラクターを操作することになったら、このゲームに対する熱は一気に冷めてしまうだろう。

 そうならないよう、主人公と探偵役を「この殺し合いゲームの中で唯一信頼できる関係」として一緒に行動させ、男の子と女の子にし、さらに男の子側を「自分に自信がない」ところから成長させた。

 こうすることで、プレイヤーは二人に感情移入する準備ができるし、

  突然操作キャラが変わる混乱による自信のなさ
   ≒
  移り変わったキャラクターの特性である自信のなさ

 と自信のなさが共通することで新しいキャラクターのほうの操作をゆっくりと受け入れられる作りになっているのである。すごい。

 混乱の中、前向きでふっくらとしていて可愛い上に、「神田沙也加」というゲーム終盤まで生き残ってもなんら不思議がないCVが当てられた、超高校級のピアニスト「赤松楓」を犯人として指摘して残虐に殺すのだ。僕がこのPSのコントローラーを使って。

 ダンガンロンパは1からこうだった。1の冒頭で、仲良くしていたヒロインがいて「ああ、このヒロインとデスゲームを抜け出すのね」と頭の中のオタク特有の思い込み10訓が発動した後に、見計らったかのように、

  彼女は殺され、
  自分が犯人として疑われ、
  最後に彼女は自分に罪をなすりつけようとしていたことがわかる。

 1でこれなのだ。1~2~3~v3となって、過去作をプレイしたプレイヤーすらも驚かせるというハードルはそれはもう高かった。それをチームダンガンロンパはまさか普通に超えてきた。

  ヒロイン(自分)は犯人であり、
  ヒロインを証拠を提示し犯人として追い詰めさせられ、
  ヒロインがそれを見て「それでいいんだよ」とにっこりと笑って、
  ヒロインは残虐に殺される。

 ダンガンロンパの提供する、良質な悪意はまるでピカチュウギャラドスにかみなりを打って4倍ダメージを与えるかのようなこうかはばつぐんな刺激となって僕に迫った。さらにここでこれまでダンガンロンパではまだ使われていなかった、推理物の邪道な王道「陳述トリック」。アガサ・クリスティのファンの僕としてはこの愛する古典が現代の感性に蹂躙されこのゲーム体験になって帰ってきたことに感動しかなかった。

裁判で嘘をつくということ

 シナリオもさることながら、今作のテーマである「嘘」に従ってアップデートされたゲームシステムでは、「嘘」をつくことができる。この「嘘」が付けるという体験、僕としては想像以上に手に汗を握った。なにせ嘘である。嘘のリスクは失敗したときに周りの信頼を失うことであり、僕はこの悪意に満ちたストーリーから、付いた嘘がバレて言及される展開を予想して非常に怖かった。

 僕は嘘つきである。日常的にそこそこ嘘をついて生きている。サラリーマンは清廉潔白な人には向いていない職業で、僕には向いていた。しかしそんな僕が、ゲームで操作するプレイヤーに嘘を吐かせることにびびっていたのだから、嘘をつくことが苦手な人であれば、このゲームは非常に心臓に悪いであろう。

 学級裁判の難易度は相変わらず良い感じである。何回かプレイしていれば、「これをすれば次の議論に進めるな」とわかる。だが、その答えが「嘘」であるとわかったときの緊張感。こんなゲーム体験は僕はしたことがなかった。他にも「反論ショーダウン・真打」「パニック議論」「議論スクラム」はゲームシステムとしてとても面白かったが、僕はこの「嘘」システムがもっとも良質なアップデートに感じた。やっぱり嘘って、怖いよ。

 

超賛否両論の最終章

 ダンガンロンパV3の評判が良いような悪いような曖昧なものであるのは、すべて最終章のオチによるものだと思う。一言で言うならば、こうなる。

あなた達は記憶を失って「ダンガンロンパ」のキャラっぽい記憶を植え付けられた一般人。殺し合いをすることを知っていて参加したし、その殺し合いは、エンターテイメントとして、お客さんに求められたものなんだよ。  

 嘘がテーマのダンガンロンパV3は、ゲームのキャラたちに「お前らの存在は全て嘘」と言い放つ。そして、お客さん≒ゲームのプレイヤーである僕らだ。そう、ダンガンロンパの新作を待っていた僕らは、つまり、魅力的なキャラクターが凄惨な殺し合いをすることを望んでいたのだ。僕らが彼らを殺し合わせたのだ。

 ダンガンロンパ1・2のように、殺し合いの裏に潜む首謀者のカラクリを暴こうとした登場人物たちは、その行為が限りなく無意味で、首謀者のルール違反を指摘しようがなんだろうが、僕ら(つまり、僕のようなプレイヤー)が求め続ける限り殺し合いは続く、という事実を突きつけられる。林原めぐみ演じる主人公が「はあ?」と連呼して、それでもと希望を探して、それすらもエンターテイメントとして消費されることに絶望する。今回の首謀者はこれ見よがしにダンガンロンパ1・2のキャラの姿と声になりきり、悪意たっぷりに笑う。

 僕はこの展開に吐き気すら催しながらプレイすることになった。

  このオチで全てが台無しになった!
  メタネタもここまでいくと見苦しい!
  これまでのダンガンロンパのキャラクターを冒涜しないで!

 そういう人がこのゲームにAmazonで星1をつける気持ちは痛いほどわかる。しかし、それでも僕は言いたい。これは、奇をてらっていて悪意に満ちていてサイコであるが、とても誠実な展開だ、と。

 この展開を見て思い出すのは、エヴァンゲリオンの旧劇場版だ。映画の中で客席を映し出し、それを見ながら登場人物に会話をさせ、病んだ監督は当時「アニメなんて見てないで現実に帰れ」というメッセージを込めたと言った。

 いつのまにか、あまりに残酷なデスゲームという物語構造に慣れきった僕ら。コンビニの本棚に五種類ぐらいの「閉鎖空間で男女が殺しあう」漫画が並ぶ今、フィションの殺し合いを心底楽しんで消費する僕達への警告。そう捉えることもできるかもしれない。

 でも僕はそういう類のものではないと思う。

 僕らはフィクションにリアルを求めている。普段陰気なキャラクターが突然元気になったら「キャラが崩壊してる。キャラが描けていない」と怒る。ならば、彼らは限りなく「リアル」に作られなければならない。リアルなキャラクターがクリエイターの中に生まれた。それはまるで生きている人間のように。よし、素敵だ。じゃあ閉鎖空間で殺し合いをさせよう。

 ゲームのキャラの立場に立って考えたら、これ以上の悪意ってあるだろうか。

 これまで、1で世界を滅ぼす絶望に打ち勝ち、2で主人公自身が世界を滅ぼす絶望だったという事実と向き合ったダンガンロンパ。その次を本気で考えて、世界を滅ぼす絶望以上の絶望とキャラを向き合わせようとしたら、これしかないというテーマではないか。

 制作チームはエヴァの映画のように「ダンガンロンパに疲れた、もうこんなゲーム作りたくない」そう思ってこのテーマに至ったわけではないと、僕は思う。そうでなければ、登場人物に「お前はゲームのキャラとして作られたんだ」と突きつけた後の大団円なんて作れっこないからだ。

最後にキャラ達は全てを捨てる。ゲームから降りる。ゲームに参加しない。
首謀者の「最後に希望を手に入れる物語にしてよ!」という声に耳を貸さず、何もしない。
「何もしないと全員殺すよ」と言われてもめげない。
僕らの命を使って、このダンガンロンパという「デスゲーム」を終わらせる。

 この終わり方には僕は本当に痺れた。嘘がテーマと言いながらなんと本質的で、どこまでも物語のことを深く考えて潜って苦しみ続けた結果の、曖昧で歯切れの悪い結論。過去のキャラの姿で登場人物を苦しめ続ける首謀者に吐きそうになりながら、それしかないなと思わせられた。そして、ありがとうと思った。

 何がありがとうかって、この展開はゲームのキャラクターだけでなく、プレイヤーにも誠実でなければ出てこないからだ。プレイヤーに誠実でなければ、すなわち、僕らを軽はずみなハッピーエンドが好きな消費者として軽んじていたら、こんな曖昧で歯切れの悪いまるで現実の問題解決の方法みたいなラストは出てこない。それに、この展開を使ってしまったら今後のダンガンロンパにも支障が出るだろう。どうせV3みたいに、全部嘘なんでしょ。ゲームの世界なんでしょ。ダンガンロンパ4を作ろうと思ったら、こんな展開にしないほうがいいに決まっている。

 でも、このラストを作ってくれた。僕らを過去作以上に驚かせるために。僕らに本気でゲームのことを考えてもらうために。

 誰がなんと言おうと、僕はダンガンロンパにこういう体験を求めているのだ。もちろん、主人公の最原が心底嫌悪するようなデスゲームの後のハッピーエンドも、求めているのだろうが、それだけじゃなくて、他のゲームではできないような外連味あふれる展開を、吐きそうになりながらそれでも続きが気になって眠れもせずにコントローラーを離せないようなゲーム体験を求めていたのだ。それは叶えられた。

  一章では、好きになった女の子を犯人として指摘する絶望を。
  二章では、コナンのような大掛かりな舞台装置のようなトリックを。
  三章では、閉鎖空間で新興宗教が生まれ、連続殺人でぶち壊される醜悪な展開を。
  四章では、虫も殺せない善人が忘れた記憶の中で犯した殺人を暴く最悪を。
  五章では、嘘つきがついた最後の死を厭わない入れ替わりトリックを。

 このゲームはこれまでのどのゲームにもない驚きと吐き気があった。これでダンガンロンパが最後になったとしても、このゲームのことを僕は覚えていると思う。それぐらい鮮烈な体験だった。フィクションに命をかける人間がいるという、その矜持と覚悟をひしひしと感じた。そして最後は楽しかった。

 ぜひこのゲームをやってほしい。そして、最終章で何かを感じてほしい。あんな展開は納得できないと僕を説き伏せに来てほしい。良質なポップスは、受け取る相手によって受け取り方が違うものだ。

 そして、最後にはやっぱり絶望する。

 こんなすごいダンガンロンパを作って、次回作どうするんだろう、と。

*1:このような流れは「推理小説 - Wikipedia」が詳しい