VTuber をやってみて、行き詰まってやめて、またやってみて、また行き詰まっている。非常に面白い体験をしている反面、少し怖い。
前提として、僕は全然再生数は稼げていないし、そんなに自分自身で面白いことができているとは思えていない。それでもインターネットの海に流すことをためらわないのは僕の狂気なのかもしれない。
(ちなみにブログを書くときは常に自分は天才と思いながら投稿しているので、かなりのギャップである)
しかしまた不思議な前提として、僕はある漫画家と仲良しであるがゆえに、本当はその漫画家が見たい人たちから、反応もイラストも要約(動画のテキストおこし)ももらっている。このせいで僕はあたかも中堅どころの VTuber のように数人?数十人?から、自分の動画のフィードバックを貰える立場にある。
こんな変な状況にいるのは世界でも僕だけかもしれない。今や僕はインターネットのオンリーワンアンダーグラウンドの住人だ。よくある話、とは流石に言いがたい。
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僕はカスタムキャストというおよそ本気で VTuber をやろうと思っている人は選ばない汎用アプリでアバターを安直に作った。休止期間にこれを本物の Live2D にしようと思ったがやめた。
単純に中身に見合わない外見をまとっても仕方がないと思ったことと、バーチャルおばあちゃんという辻斬りのように鋭利な切れ味の尖りきった VTuber がデフォルトのおばあちゃんアバターで人気を博しているのを見て、結局中身だろと諦めたのと、両方ある。
僕の気まぐれで生まれてしまった夏影ソウナというキャラクター、それは僕に合わせて瞬きし、僕に合わせて体を揺らす。ただそれだけの虚ろな虚像なのに、まるでそこに別の自分がいるような感覚を覚えることにふと気がつく。
僕は彼の魂であり、すなわち彼は僕そのものなのに、完全にイコールではない不思議な感覚。深夜に動画を撮りながら、これはとても危ない行為をしているんじゃないか、と僕は夏影ソウナに問いかけた。彼は眠そうに瞬きをして返す。麻薬よりも危険で甘美な、魂の分離。
昔から、芸能人は謂れのない「理想の本人像」を作り出されて、その本人とのギャップに苦しんでいる。新垣結衣は自分の日常が「インスタ映えしない」と言い切った。存在がインスタ映えのはずの目がぱっちりして顔が小さい彼女においてそんなわけはないのだが、新垣結衣の「魂」にとってそれはまぎれもない事実なのだろう。
アイドルが「アイドルをやめます」と宣言するときも同じだ。アイドルという「偶像」を辞める。みんなの偶像として消費されることに疲れてそれを投げ捨てて「一人の女の子」に戻る。
技術がついに、その「自分がコンテンツ化して一人歩き」することを成し得る手段を、一般人(つまり僕)にも与えたとしたら。
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面白いことがあった。僕は割と夏影ソウナをずさんに扱っていた。声もボソボソしてゲームや漫画の考察も浅く、ゲームの腕も中途半端な僕が面白くなるには批判コメントを読んで面白おかしく返すぐらいしかないじゃない。そんなふうに思ってネガティブなコメントばかりを拾っていた。
そうすると、感想で「賞賛コメントもちゃんと読んで」と書かれたのだった。僕は昨日の深夜にふと感じた不思議な感覚とこのコメントがリンクした。なるほど。
夏影ソウナをいじめてはいけないのか、と。
これは VTuberだから、というものでは多分ない。コンテンツ化された芸能人、YouTuber、ニコニコ生主、全てに当てはまるし、なんなら人間そのものも「自分自身を大事にしなければならない」のは一緒である。
しかし、VTuber はアバターと魂がお互いを「引っ張り合う」上に、新垣結衣と違い、そこには完全に外見が違う自分がいる。
月ノ美兎はアイドルではないが、可愛いアバターをまとったことでアイドル的側面を手に入れた。本人もそれに驚いているように思える。
中の人の動画が流出している彼女をみていると、彼女が VTuber にならなかったら、彼女がアイドルソングを歌う役を自分に与えることはおそらくなかった(彼女は映画研究部に所属し、脚本を書いていたという)。
月ノ美兎 わたくしの映画研究部がふだん作っているのはオリジナルもので、コメディもシリアスなのもあります。脚本を書くこともあるので『サマータイムマシン・ブルース』の生き生きしたやりとりは勉強になりますね。
https://www.hayakawabooks.com/n/nfbdc1e70c3b3
「月ノ美兎が語る戯曲『サマータイムマシン・ブルース』(ヨーロッパ企画)」より引用
不謹慎で恐縮だが仮定の話として聞いて欲しい。もしも今、月ノ美兎が死んだら、生身の彼女とは別に、月ノ美兎の葬式も行われそうな気がする。やはり月ノ美兎は中の人と完全にイコールではないのだ。
まるで男の子にも女の子にも見えるように、自分の声に合わせて眠そうに設計した夏影ソウナの VTuber アバターは、僕よりもだいぶ見た目が良い。だからこそ、簡単にインターネット上で優しさを受けることができる。いじめるのは「中の人だとしても許さない」。いやそれ僕だから、僕の勝手でしょう、と僕は返すけれど、なんとなく僕自身、夏影ソウナが可哀想になってしまう。
ということは、夏影ソウナは僕ではないのか?
批判コメントを受けることによる小さな精神的ダメージも手伝い、僕は最近少々不安定になっている気がする。しかし、その複雑な心境も、面倒臭くて剃っていない髭面も全て反映せず瞬きだけをトレースするツルツルした見た目でちょっと可愛い夏影ソウナ。
なりたい自分、こうありたいという自分を具現化するという手段を人間はこんなに簡単に手に入れてよかったのだろうか。
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心と見た目はリンクする。心を入れ替えると見た目は変わるが、相応の時間がかかる。冴えないクラスの片隅の男子がリア充になると決めてから清潔感のある見た目を手にするまでは時間がかかったはずなのだ。筋トレが流行っているのは見た目も変わって心も固く強くなるからだ。
けれど VTuber はものの数時間で心と身体をずらしてしまう。
その見た目だけが「ずれた」自分は、自分とは一人歩きし、お互いに「引っ張り」合う。うまく使えば、ものすごい効果が得られるだろうが、うまく使わなければ両方が壊れてしまうのではないか?
僕なんかより何万倍も力がある VTuber の魂は今どう思っているんだろう。電脳少女シロは、月ノ美兎は、ヒメヒナの魂は、今何を考えている?
「VTuber は人である」ヒャダインは関ジャムでそう言い切った。その通りだ、ただ、人は自分より見た目が綺麗なもう一人の、と言いつつ別の自分が一人歩きしていくことに耐えられるのだろうか? 彼女らはアイドル役もガールフレンド役も性的な嗜好も全てを受け入れて笑っている「初音ミク」ではないのだ。文化が地続きだから混乱するが、初音ミクと人は間違いなく違うのだ。
未来の歴史家はこう言うかもしれない。
「人類には VTuber は早かった」