1973年のピンボール/村上春樹

1973年のピンボール (講談社文庫)
風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』と読んで、真ん中の空白を埋めるように、「鼠三部作」の二作目を今日一日で一気に読んでみました。ちなみに僕は、『村上春樹全作品 1979-1989』のほうで読んでいるので、冒頭に「自作を語る」なるものがついているのだけれど、そこで村上さんは「この作品は『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』に挟まれて、なんとなく存在が霞んでいるような雰囲気がある」と語っています。実際僕もそんな気はするし、内容的にも、物語として完成している『羊をめぐる冒険』と、散文的かつ詩的でさらさら読める『風の歌を聴け』の中間の感じで、どっちつかずな気もしなくもないです。


でもまあもちろん村上さんですから、この小説にもキラキラするものはいっぱいあるわけで、気持ちよく読み終わったんだけど。


ところで、こうして初期の作品を読み終わって(村上さんはもう結構読んでます。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とか大好き)改めて強く感じたんですが、村上さんの小説って、ふと、ある一節にものすごく惹かれて、悲しさに似た感情を覚える瞬間があります。それは「アキが死んじゃった」とか具体的な悲しさじゃなくて。それは、ふと、埃をかぶった昔の思い出の品を見つけたときのような、夕暮れ時に二階の窓から、知り合いの女の子が自転車で通り過ぎるのを見たときのような、曖昧で漠然としたもの。喪失感というか、虚無感というか・・・標準的高校生が口癖として「ああなんか面白いことないかな」と言うときに感じている気持ちかな?そんな様なものですね。そして、その瞬間を提供してくれるものは、音楽にしろ本にしろ映画にしろ、大概僕にとってものすごく魅力的なものなんです。僕が今、一番共感できる悲しみの種類がそれなんでしょうね。


でも、その「曖昧で漠然とした虚無感に似たもの」は曖昧で漠然としているからこそ、文章になかなかあらわせないと思うんです。例えば、『世界の中心で、愛をさけぶ』はアキが死ぬまではいい感じで読みすすめたけど、アキが死んでからがつまらなかった。それは、「曖昧で漠然とした虚無感に似たもの」を片山恭一さんが圧倒的に書けなかったからだと思うんですよね。と、いうわけで処女作、二作目からそれをところどころ感じさせる村上さんは、改めて凄いな、やっぱり大好きだ、と思ったわけでした。