綺麗な文章

ブログを書くようになってから、人のブログを徘徊するようになったのだけれど、
どれだけ人気ブログでも、それでいて文章が繊細、だとかいうものに出会うことは少ない。
結局、ブログの文章に求められるのは、「面白さ」もしくは、「情報収集の迅速さ」であり、
そこに小説や詩に触れているときのような、文章の美しさは求められていないのだろう。
それに関しては、巡っている僕自身ももちろんあてはまる。
即座にブックマークしたくなるのは、
やはりぱっと見で面白い(笑えると言い換えてもいい)ブログであり、
「あ、この人文章綺麗だ。ブックマークしよ」という気分にはなかなかならない以上、
文章の綺麗さをブログに求めるなんて野暮かもしれない。
需要がないところには、供給がないからだ。


ところで、綺麗な文章って言うのは、結構抽象的な言葉だ。
音楽における綺麗なメロディが、ほぼ直感によってしか図られないように。
ただ、恋について書いてこちらをときめかせる文章を、
なんとなく「綺麗な文章」と言い換えるのには抵抗がある。
そこで綺麗といわれているのは登場人物の恋愛感情とかそれの類で、文章自体ではないからだ。
下ネタだろうがエロだろうが、文章を綺麗にすることはできる。
友人が多重人格のY平さんの下ネタ文章を「汚い言葉なのに文章が流れる」と評していた。
綺麗な文章による下ネタ。どう考えても不似合いだけれども、素敵だと思う。


そう、文章には些細な物事を膨らませる力がある。
内輪な下ネタを一般的に笑える下ネタに昇華できるように。
僕が目指しているのはまさにそれだ。
僕は普通の人生を送っていて、普通の感情を抱いているのだけれども、
それが文章によってドラマの1シーンのように輝けるのならば。


例えば、身内しか見ていないようなブログにこんな一説があったとして。

○月○日 不調


インフルエンザになった。つらいよー。
今日は本を読もうっと。


コメント(0)


もしこんな風な文章だったら、人気ブログたりえないだろうか、とか。

○月○日 不調


朝目覚めると、身体の奥底に、灰色の泥が溜まっているような気分だった。
日差しはいつものように深く私を射し、
かざした手からは血管が浮き出ていた。
その手が少し震えていたのは、
その日差しがあまりにも乱暴な「正しさ」をもって、
私を値踏みしているからだろうか。


TVをつけると、「今日は初春の温度になります」と言う報道。
しかしこの、身体の奥底から来る寒気は一体なんなのだろうか。
私は考えるよりも先に、薬箱から体温計を取り出し、
ガラスにうっすら映った頬の赤さに顔をしかめながら、目を閉じる。
無機質な電子音が、その目を再び開けさせる。
「37.8」…私が恋する乙女だとしても、少し温まりすぎた温度だ。
どうやら私は、インフルエンザになってしまったらしい。


今日は一日、ベッドで読書してすごそうか。
本棚の中の、くたびれた三島由紀夫の文庫本を取り出して、ベッドに放り出した。


コメント(2)


あ『やりすぎです。くどい。前のが良かった』
とおりすがり『乱暴な「正しさ」ってなに?文豪の真似とかまじうけるw』

…かくして、美しい文章と言うのは難しいのだ。