そのロック・バーは、いつものように数人の連中を抱えて、深夜の街の片隅に静かに佇んでいた。
そいつらは、たくさんのビールを飲み、たくさんのピーナツの殻を床いっぱいに撒き散らし、
たくさんの酔狂な話をしていた。写真、絵画、映画、文学…
僕はその様子を一歩引いた視点から眺めている。そして、そいつらの話に耳を澄ませている。
大学の友人には、いつも寝た女の数を自慢されていた。
僕は適当にうなずきながら、寝た女の数以外で友人に勝っているところを探す…くだらない。
店内に流れている音楽は、聞いたことがないが、声に聴き覚えがある。
この声はヴェルベット・アンダーグラウンドで聞いたそれと同じだ。
ならばこれは、ルー・リードのソロ作品と言うことだろう。
彼の奏でるロックとともに、彼らの話はひどく高尚な響きを持って僕の耳に響いた。
僕も友人達と、あんな風に話せたらいいのになって思う。
しかし、明け方になるまで彼らの話は続いて、僕はだんだん疲れを感じ始める。
いつまで話すつもりなのだろう。そして、彼らは一体どこに向かっているんだろう。
そういえば、かかっている音楽もずっとルー・リードだ。
さすがに聞き飽きたよマスター、せめてビートルズとかをかけてくれないか。
すると、マスターはカウンターの奥にするりと消えていった。
もしかして、僕の思いが通じただろうか。違うレコードを持ってきてくれるのだろうか。
しかし、予想は外れた。カウンターに出てきたマスターは、ある一冊の本を抱えていた。
あの装丁には見覚えがある。そうだ、村上春樹の「風の歌を聴け」じゃないか。
マスターは、その連中の一人に「風の歌を聴け」を貸すつもりらしかった。
彼はアルコールでヘロヘロになった手で、その本を受け取る。
僕はこの奇妙な醒めた夢が、ここで覚めてしまうのが急に名残惜しくなった。
「風の歌を聴け」には、僕も思い入れがある。
図書館で借りて読んだ時に気に入って、結局新品を購入し、今までに三回は読み返した。
お世辞にもあまり本を読まない僕にとっては、珍しいことだった。
彼はあの本を読んで、どう感じるのだろう。それがとても気になる。
不思議なことに、夢であることを意識した今でも、まだ目は覚めないままだった。
視界はゆっくりと動いていき、帰路についた彼の背中を追っていく。
彼は下宿先と思われるアパートにつくとすぐに、ぱたりと倒れ、眠ってしまった。
あれだけ酒を飲み、熱く語っていたのだ。しっかりと家に辿り着けたことがむしろ驚きだ。
しかし、僕はどうすればいいのだろう。これから彼が本を読み出すまで、ずっと待つのだろうか?
その問題はすぐに解決した。ふと目を逸らした隙に世界は昼になり、彼は目を覚ましたのだ。
彼は蛇口に直接口をつけて、水道水をごくごくと音を立てて飲んだ。
そしてすぐに、僕に背を向けるかたちで、「風の歌を聴け」を読み始めた。
僕は彼の前に回り、彼がどういう表情でそれを読んでいるのかを見たかった。
しかし、無理だった。この夢では、視点が自動的に動いていくからだ。
彼の背中から、彼がどう感じているのか判断しろというのだろうか?
僕は仕方なく彼の背中を見つめ続ける。
彼がページをめくる、乾いた音だけがうらぶれたアパートに響いていく。
その時僕はあることに気がついた。彼がページをめくる間隔が怖ろしく長いのだ。
10ページは読み終わるだろうという時間が経過して、やっとページをめくる音が聞こえてくる。
もう明らかだろう。彼はこの本の文章を宝物のように感じていて、
同じ行を何度も何度も読んでいるのだ。
自分の好きな本を彼も好きだという事実は、単純に僕を高揚させた。
深夜のロック・バーの常連と、同じものを好む僕の感性が、高尚なものに思えたからだ。
僕はそれを確認すると、そろそろ夢から覚めることを願った。もう満足だよ。
しかし、夢はまだまだ終わらなかった。
彼はずっと同じ姿勢で、怖ろしいほどスローペースで、「風の歌を聴け」を読み続けた。
またいつのまにか一日が経ち、それでもまだ彼は読み終えていなかった。
僕の心にじわじわと、不安が翳り始めていた。
この夢がずっと覚めないのではないかと、疑いはじめていたからではない。
彼の本へののめり込み方が、明らかに僕のそれを越えていたからだ。
僕がゆっくりと瞬きをすると、彼はやっとその本を読み終わった。
窓からは夕焼けの、真っ赤な光が差し込んでいる。
一日半…もしくはそれ以上かかって読んだということになるのか。すごいな。
そして彼は、引き出しから原稿用紙を取り出す。日に焼けて、すこし赤茶けている。
何をするつもりだろうと思って見ていると、彼は「風の歌を聴け」の文章を、ゆっくりと写し始めた。
僕はそれを横から見ている。彼の手によって、宝石を宝石箱にしまうかのように自然に、
文字が原稿用紙のます目に吸い込まれていくのを見ている。
どうしてそんなにも…なあおい、もうそろそろいいだろう?
どれだけ時間が経ったかは分からない。20ページもの量を写し終わった時、
彼はその原稿用紙達をそっと取り上げて夕陽にかざした。
夕焼けにきらきらしたセンテンスが透けて、その美しさを増していく。
やがて彼はそれを壁にとめようと画鋲を取り出したが、やがて首を振ってその動きを止めた。
そして、原稿用紙をすべて引き出しの中にしまった。
僕にはその行動の意味が分からなかった。
あれほど愛でていた文章をどうして、いつも目のつくところに置かないのだろう…
☆
そうして長い夢は覚めた。
僕は付けっぱなしのノートパソコンが乗っている机で、突っ伏して眠っていた。
そうだ、宿題をやろうとしていたんだっけ。まだ途中だったよな。
伸びをしようと腕を振り上げると、机に乗っていた本を落としてしまった。
僕はその表紙を見る。
宿題の合間の気分転換として、また読み返していた本だった。
どうしてだろう、僕はそれに対して、言いようのない苛立ちを感じていた。
落ちた本を拾い上げようともせず、むしろ足を使って遠くに蹴る。
四回読み返すほど価値のある本じゃない。俺は宿題をやるべきだろう?
音楽を聞こうと思った。とりあえず、CDラジカセのスイッチを入れると、
入れっぱなしになっていたCDが回って、音楽を鳴らし始める。
ハルジオン…そうだ、バンプオブチキンのジュピターを聴いていたんだっけ。
フジワラモトオの、もう何百回も聞いた歌声が、僕を優しく包んだ。
どうしてだろう、彼は必死に声を絞って不安を歌っているはずなのに、なんだか安心する。
やがて、少し地味だけれど大好きな、ベンチとコーヒーが始まる。
俺は歌っていたんだろう?
誰に歌っていたんだろう?
俺は解っているんだろう?
何を解っていたんだろう?
僕は引き出しからノートを取り出すと、ベンチとコーヒーの歌詞を写し始めた。
僕の心にすとんと落ちてきた言葉は、ノートにもすとんと気持ちよく落ちていった。
やがてすべてを写し終わると、僕は思い出したように「風の歌を聴け」を拾って机の上に置いた。
もう苛立ちはどこかに消えていた。しおりが挟んであるページから続きを読み始める。
ああ、そういえば忘れていたことがあった。
僕はベンチとコーヒーの歌詞が書かれたノートの切れ端を、画鋲を使って壁にとめた。
少し茶色くなった壁に、そのノートの切れ端は驚くほど馴染んだ。
※冒頭の青文字/引用部の歌詞…BUMP OF CHICKEN「ベンチとコーヒー」より