好き好き大好き超愛してる/舞城王太郎

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)
図書館で借りて読みました。画像は文庫本。舞城王太郎は冒頭の一文から強烈に惹き付けられる。「阿修羅ガール」も冒頭の一文でノックアウトされてしまったので、これから読むのが楽しみだ。


そして今日勢いづいて電車移動の行き帰りで表題作を読み終えた。まだ後半の「ドリルホール・インマイブレイン」は読んでいないけど感想を書こうと思う。



僕は恋人が死ぬ類の小説は基本的にずるいと思っている。嫌いなわけではないし、感動もするし、時々は涙も流す。けれど、それは僕にとって重要な体験ではない。当たり前の題材で当たり前に泣く、そんなの。それよりも日常の何気ないことを何気ないままに魅せるほうが難しいし、素晴らしい。丁度今日発売した、「よつばと!(8)」みたいに。


しかしこの小説は違った。時折唐突な短編を挟んでオニムバス形式に展開していくこの作品は、すべて「好きな人が死ぬ」というとてつもなく非日常なテーマを扱っておきながら、とても登場人物の感情描写がニュートラルだ。酔いきっていない。けれど、冷めているわけでもない。限りなく情熱的で限りなく純愛。


人の人生の中に《死》はある。《恋人の死》だって起こりうる。誰にでもだ。でもそれを書くとき、それがいかに悲しく悔しいかなんてことは僕には興味がなくて、僕が言いたいのは、その悲しみと悔しさの向こうに何があるのか、その悲しみと悔しさと同時にどんなものが並んでいるのか、ということなのだ。
僕が書きたいのは、実際に起こったことのそばに、その向こうに、何があったかなのだ。


僕は経験したことがないから分からないが(いや、もしかして分かろうとしていないだけかも。経験してなくても分かることは分かるはずだ)、きっと彼女が死に蝕まれ、隣で吐き続け呻き続けてもそこに日常は存在するのではないだろうか。その時に綺麗(に見える)感情だけで酔っていられるわけではないし、全ての瞬間で彼女だけを見ているわけではない、と思う。


そこには何かしらが並列されていて、その並列されていた何かを考える瞬間が在って、そこで意識が彼女から離れるのは決して不謹慎なわけじゃない。むしろ、ありきたりな「酔った状態」、セカチュー風*1に言うと「朝起きていたら泣いていた。いつものことだ」的な状態からもっと落ち着いて、冷静になった時にこそ、本物の「超愛してる」という感情が見えてくるんじゃないだろうか。


この小説はさらりと書かれていて、さらにところどころで短編を挟むので感情が振り回されて、泣けない。「泣きながら一気に読め」ない。けれど、それ以上の何かを胸に残していく小説だ。彼女の死という大げさなテーマを扱って、その情報を「客観的な重要度」では昨日食パンをかじった一口目と同じとする冷めた思考を披露し、それでもまだ余りあるくらいの情熱を感じさせる。すごい。久しぶりに感想が書きたくて仕方がなくなる小説に会った。

*1:この小説がセカチューを意識して書かれたという話は有名らしい