2018年は停滞の年だった

2018年は停滞の年だった。

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Fate/Grand Order 人智統合真国 シン より 始皇帝の統治する世界について

なんて思わせぶりな書き出しから始めれば、親切な友人や同僚たちが「大丈夫か」などと心配して声をかけてくれてしまいそうなのだが、大丈夫だ、これはゲームの話だ。なんだゲームの話か、といってこのページを閉じる前にもう少し聞いて欲しい。

ゲームに限らずだが、創作には「桃太郎」「花咲か爺さん」みたいな普遍的で時代を問わない話と「コンビニ人間」のように時代とともに語るべきものと両方あり、特に後者においては世界を写す鏡だと思っている。僕らが働き方改革だの生産性向上だのジェンダーロール問題だのを考えている中でじっと世の中の需要に耳をすまして小説や音楽や映画を作っているのだから、それはもう世相を写すプロと言っても過言ではない。だから僕は小説や音楽や映画を見るのである。ごめん、ちょっと見栄を張った。

僕が2018年にプレイしたゲームのあらすじはこうだ。人間は機械を人類の繁栄のために作った。しかし人間は滅んだ。機械は存在意義を失ったが、一部の機械が人間が滅んだことを隠し、敵側の機械と人類の繁栄を目指して戦争をし続けた。人間がすでにいないことに気づく機械が生まれても、それが忘れ去られるよう、一定期間で全滅するように仕組まれていた。敵側の機械すら、戦争が続くことにより自己進化を促すため、相手側をわざと生かしていた。「命もないのに、殺しあう」ニーア・オートマタ。

もう一つ。月100億稼ぐスマホアプリの話だ。人類はほぼ滅んだ(滅んでばかりだ)。生き残った主人公たちは「停滞」にたどり着いてしまった歴史のIFと戦い、自分たちの世界を守ろうとしている。停滞の理由は様々だ。資源の不足で人間は増えることができず、神に管理されたままの世界。秦の始皇帝が世界征服を果たして、一般の民に教養や自由を与えないまま生かすことを選ぶ世界。Fate/Grand Order

まあ、ゲームの話だ。ゲームを現実と混同している、だから暴力的なゲームは全て禁止しろ。わかったから、落ち着いて。南青山に住まなくても幸せな子供はいるよ。ただ、350万本世界で売れたゲームと、1500万ダウンロードして月100億稼ぐアプリが、共に鮮やかに「停滞」をテーマにしている。これが鏡だとしたら、僕ら(あえて「僕ら」と書く)は明らかに停滞している。もしくは「停滞」と戦っている。

僕の仕事の世界を広げてくれた先生はよくこう言っていた。「仕事に一生懸命になれ。仕事を頑張らないという選択は悪ではないが、それは他人に自分の命運を委ねる生き方だ。例えば突然会社が潰れたら、君は生きていけなくなる」でも僕はこの考え方に100%賛同できなかった。確かに、自分の能力を磨いたら選択肢は増えるが、完全に自由にはなれない。世界を塗り替えたジョブズすら、自分の癌からは自由になれなかったのだから。

自分のできることが増えるのは嬉しい。世界が広がるのも嬉しい。仕事を頑張らないことは罪ではないが、そう決めた人と同じチームでは働きたくない。そう思う僕と。

これから自分のできることを増やして、自立して、社長になって、南青山に住んで芸能人と付き合いながらRTで100万をばらまいてどうする? それが目指す姿? 確かに新垣結衣と付き合うには社長になるしかないかもしれないけれど。そう思う僕。

20年前にそれに気づいていたのはもっと少数だったはずだ。だから、RadioheadはOK Computerの中で「作られた幸せ」に警笛を鳴らしていたのだ。しかし今は、間違いなくもっと増えた。だからニーアオートマタの「動いているようで実は同じ輪をぐるぐる回る、目的を失った機械」の話が他人事とは思えずに刺さるのだ。始皇帝が全てを支配し、あとの人間は麦を育てながら生きる意味も文字も和歌も知らずに、無邪気に笑う。そんな人間達だからと言って、自らより劣っていると判断して滅ぼしていいのか。そうやって迷うFGOの主人公に共感するのだ。むしろ、僕も始皇帝の支配する世界に行きたい、そんな風に思う可能性だってあるのだ。

アダム・スミス vs マルクスの資本主義 vs 共産主義のバトルは、ソ連の崩壊によりアダム・スミスに勝敗が上がった。マルクスは気づかなかった。両方が一時期のドイツのように隣接していたら、資本主義の方が「楽しそう」に見えることに。

しかし、神の見えざる手にも限界があった。よりお金を稼ぐことが正義だとして、人類は進歩しつづけることはできても、幸せにはならない。昨日より早く正確に東京につけるようになっても、その空き時間でいつでもゲームができるようになっても、幸せにはならない。昨日10個作ったものが工夫して12個作れるようになっても仕事は減らない。隣の企業が明日には14個作るからだ。人類は神の見えざる手に口を塞がれて、どんどん息苦しくなっているとすら思う。

ショーペンハウアーは言った。

「天才とは、狂気よりも1階層分だけ上に住んでいる者のことである」

なるほど、僕がこんな風に迷っている間に、ずっとプログラミングをしたり、自分の製品を夢想したり、一億円をツイッターで配ったり、絵本を書いたり、バカと付き合うなと自己啓発本を書いたり、一分一秒を自己成長にだけ使い続ける人間がいる。彼らに僕は勝てないだろう。

資本主義という「狂気」に身を委ねきった者の、ごく一部のみ「天才」になれるのだから。僕はその「狂気」に身を委ねきれていない。仕事以外にもなにか、と手を出した同人小説は3部貰っていただくのがやっとだった。初音ミクで最初に音楽を投稿した時に30再生で止まったことを思い出した。どちらの狂気も、僕の手の遥か彼方にある。

 

こんなことばかり考えていた2018年はやはり「停滞」の年だったのだと思う。

 

僕の思考はまだぐるぐる回っている。人間はそれでも働いて、自己承認や自己実現の欲求を叶えることに命を注ぐべきなのか。2019年はこの「停滞」から、どこに出ることができるだろうか。その出口が「猫を撫でていれば幸せだからもう何もしないニャン」とか「異世界に転生して女の子にちやほやされたい」とかそうならないで欲しい、という漠然とした感覚だけがある。これも、神の見えざる手の導きか。

もしかしたら。もっと単純に「できることが増えたっていうけれど、お前は石器時代の人間に磨製石器を教えただけだ。さっさと来いよ、平安時代にさ」と焚き付けてもらいたいだけなのかもしれないけれど。我ながら、面倒臭い性格だこと。