新海誠監督本人が賛否両論あると思うと言っていたクライマックスの全肯定組です。これは「君の名は。」以上の最高のハッピーエンドだと思います。
これまでセカイ系と呼ばれる数多の作品が、セカイと繋がってしまった彼女とセカイどちらを選ぶかという問いを投げかけてきました。この作品もその系統にあり、世界よりも彼女を選ぶという選択をします。君がいてくれれば世界はどうなってもいい。その選択をした瞬間のカタルシス。それはもう美麗すぎる映像とRADWIMPSの音楽で完璧に演出されていたのですが、この作品の素晴らしいところは更にその先を描いたことです。
天気と繋がってしまった彼女が祈って天気を変えることを繰り返したことで、東京は異常気象にずっと見舞われ続けることになります。それを元に戻すためには彼女が消えなければならない。それを強引に引き止めた主人公によって東京は永遠に雨の降り続ける街になり三年が経って完全に水没してしまいます。これが彼女を選んだことに対する代償なのですが、そこに関して今回のキーマンである小栗旬が声をあてる須賀が言うのです。
「世界なんて元から狂ってる。自分たちが世界を変えたなんて自惚れるな」
世界を変えてしまったことと思春期の感情の爆発をこの台詞で結びつけたわけです。それはお前らの勘違いだよ、世界は元から狂っていてお前たちではどうすることもできないものだったんだ。
本当にそうかもしれません。実は彼女が居なくなって晴れたのは一時的なものだったかもしれない。もともと東京は水没する運命だったかもしれない。全ては青春時代が見せた妄想だったのかも。そんな煮え切らない思いを抱えながら、もう一度陽菜に会いに行くと、彼女はまた空に対して祈っている。その姿を見て帆高は思うんです。やはり僕らは世界を変えてしまって、彼女を選んだ結果が今なのだと。
このラストで新海誠さんの伝えたい事がストレートに伝わってきて映画が終わった後もその余韻に浸っています。極めて冷静に世界を変えることなどできない自分を見つめながらも、思春期の感情の暴走を許して受け入れたということなのです。
「これは彼女と僕だけが知っている
世界の秘密についての物語だ」
CMのモノローグがそのまま伝えたいことだったわけですね。
このラストは本当に優しい。御都合主義だろうと何だろうとこの優しさを僕は前面肯定します。これに対して、実際に雨しか降らない東京で被害にあった人達はどうなるんだというツッコミはここでは野暮というものです。そもそも世界は狂っているのでそれは彼らのせいではないのです。
この達観した視点は新海誠さんの強い個性だと思います。他にはない。思春期の暴走をそのまま形にしていくエヴァと対極に位置する優しさ。碇くんにこの言葉をかけてくれる須賀のような大人がいればな、と考えてしまうぐらい。
本作「天気の子」は、「君の名は。」と比べると更に粗が目立ち(ストーリーが少し淡々としてる分余計気になるのもあると思います。前作は展開の目まぐるしさでそれをカバーしていたので)音楽とのシンクロも前作には劣ると思います。しかし、前作にはないじわじわとくるカタルシスがあるのです。勝手に世界を変えてそれらを世界の秘密と呼んで青春の輝かしい思い出にしてしまうそんな不謹慎さを受け入れてあげたっていいじゃないですか。新海誠監督曰くの「映画は普通に言ったら世間の人に眉をひそめられてしまうような自分を表現するもの」そのものだと思います。僕はこんな世界を変えるような壮大な青春がしたかった。それをそのまま表現できたのは、君の名は。で新海監督が得た実績のおかげです。全ては無駄ではなかった。新海監督が作りたいものをそのまま作ってくれてそれはゼロ年代セカイ系に対する回答となった。あれは「僕らだけが知っている僕らだけのための物語だった」のです。
追伸
拳銃という分かり易過ぎる非日常のモチーフや昭和の髪型でよく分からない警察は、なんだか笑ってしまいました。まるで key 作品のようなチープさがあって、新海誠監督もゼロ年代エロゲ世代と繋がってるんだなと思わせてくれて、なんだか懐かしい。確かにこの映画、後三人ほどヒロインを足したらきっとそのままゲームにできますね。本作は多分トゥルーエンドルートでしょう。他のエンドでは別のヒロインと結ばれて陽菜は消えてしまうルートでしょうね。まあここはわかる人だけわかればよく、別に拳銃と警官が安っぽいという批評には一ミリも反論するつもりはありません。知ってる人がくすりとできる要素、ただそれだけのお話です。
Yahoo! 映画にも寄稿しました。
https://movies.yahoo.co.jp/movie/366483/review/3439/
「君の名は。」の当時の感想はこちら。