冷たいデジタルに優しさを実装したい。

最近よく社会の設計について考えている。多分暇なんだろうなと思う。

在宅勤務になることで僕の労働生産性はうなぎ上りになっている。割り込みは入らず、無理に起きて目が覚めないまま昼飯を流し込む必要もなく、眠くなったら昼寝して生産性を戻している。健康極まりない時間に夕食を食べその後少し仕事をしたらテトリスをはじめる。残業は必要ない。毎日食事とテトリスの腕が上がっていく、そんなルーティーン。

僕はどう考えてもステイホームが得意な人間なのだろう。それには僕の根底に人間への不信や恐怖がある、ということに最近気がついた。僕はなぜだかわからないがバーチャルユーチューバーが好きで生身というだけで見る気にならない。それは、バーチャルになることで情報が欠落することを好んでいるんだと思う。

デジタル化というのは乱暴に言えば情報を欠落させることで複製を容易にすることだ。そしてその欠落は、生身での会話、ディスプレイ越しの会話、ディスプレイ越しのアバター越しの会話と、どんどんフィルターが増えていき、生々しい熱を感じなくて済むようになる。つまり、本物の熱から距離を置くことができると言うことだ。

僕は常に心のソーシャルディスタンスを求めていたのかもしれない。それは、誰とも直接会話しないで仕事をする今完成したのかもしれない。僕は不安定で、同じ入力をしても出力が変わる、そんな人間のことが昔から怖かったんだと思う。

自分語りを続ける。そう言えば僕は音楽が本当に好きだが、それも常に作り手からの距離を置いて美しいところだけを取り出したものだ。一瞬を切り取ればその愛は本物で、その本物は歌にすることで真空パックされる。僕はその揺るがない本当を愛している。それは、人間は揺らぎ、裏切るから偽物だと、恐怖しているのではないか。

そんなわけで、コロナウィルスはソーシャルディスタンスを定義し、それによってコミニュケーションはどんどんデジタル化されていっている。僕の得意な、熱のない、怖くない世界。でも、あなたにとっては酷く退屈な世界。

デジタル化というのはとても恐ろしい。複製が容易なそれはローカルなコミュニティを奪っていく。もし全ての学校教育がオンライン化されたなら、果たして地方のそれほど教えることが上手くない学校教師が何かできることはあるのだろうか。僕が生徒なら、その先生の動画を見る必要性を全く感じず、勝手に郡道美玲先生の動画を見て学ぶだろう。

日本がデジタル化を頑なに拒んでいた本当の理由はそこだったんじゃないかと思う。シェアを容易にすることで、僕らにはそのトップオブトップしか必要がなくなってしまう。草野球ができない世界で活躍できるのはプロ野球選手だけだ。サカナクションYouTubeライブ配信するというのに、地方のロックバンドはどうやったら太刀打ちできるのだろうか。それがライブハウスなら、その熱で地元の20人を熱くさせることができたかもしれない。しかし、それをYouTubeにアップロードしたら、やはりそこに踊るのは再生数10という無慈悲な表示だ。

アナログは連続性があり、不安定さがあり、そしてコピーが容易ではない。それは、価値のある仕事をスキルがない人に割り当てやすい。この世界に活版印刷がなかったころ、枕草子をコピーするには一つ一つ丁寧に書き写す必要があった。その書写しはとても社会に必要で、それでいて、誰でもできる仕事だったのだろう。おっと、その頃は文字が読み書きできるのはレアだったか。まあ例え話だ。

コロナウィルスが人と人との物理的な距離を離した今、仕事の多くはよく言えばサービス業、悪く言えば暇つぶしに収束していく。それも、デジタルなものに限られる。

僕が東京で飲食店を経営していて、コロナで立ち行かなくなったとして。その後毎日一体何をすればいいんだろう。世界で毎日10000個以上が造られて消えていくスマホアプリをプログラミングしてみるか? YouTube に動画を投稿してみるか? それは確かに届いた人の暇を10分潰してくれて、社会に貢献するかもしれない。果たしてそれが、社会に貢献していると実感できるまでにはどれぐらいのハードルを超えればいいんだ。ホロライブではない私が動画を配信する意味があるのか?

もし今が平安時代なら、私は清少納言の下で、毎日枕草子を丁寧に書き写して、それを渡した数人に喜ばれていたかもしれないのに。どうして朝八時にFAXをメールからデータベースに手入力する仕事をなくしてしまったの? コロナウィルスがきっかけで効率化したんだ。じゃあ、私は明日からどうすればいいの? YouTube? 何もわからないよ。

コロナウィルスは、滅多に人を殺さない。かわりに、社会から優しさを殺していく。

社会とはつまり、優秀じゃない人間が、弱い人間が、スキルがニッチな人間が輝くための仕組みだ。それが酷くダメージを負った今、強い人間が、デジタルに強い人間だけが生き残る。それじゃあ、ジャングルと変わらない。0と1のジャングルが僕らの目の前を覆っていく。

僕らはデジタルに優しさを実装しなければならない。前に進むことしか許されない資本主義という仕組みを放棄することは、もうできない。ならばもう、デジタルに優しさを足す方法を考えるしかないじゃないか。どうすれば、デジタルに優しさを実装できるのか、考えよう。人間が怖い僕がもう一度、酷く回りくどい方法で社会に触れるために。熱を取り戻すために。

本当はもう一つの方法も思い浮かんでいる。僕らは香川県に倣ってデジタルを放棄する。最も簡単なのは戦争だ。戦争はアナログだ。弱いものにも生きる意味を与えつつ世の中のデジタルな仕組みを尽く破壊して時計を戻してくれる。いや、待ってくださいよ。それだけはやめてください。痛いのも熱いのも怖いです。デジタルに優しさを実装するまで、もう少し時間をください。お願い。