ある日、大好きなアーティストの You Tube をのぞいていたら、最新のコメントで「このアーティストは昔、インタビューでいじめを容認するような発言をしている。このアーティストを聞くのはやめろ」なんて書いてあって、本気でうんざりしたことがある。僕はこのようなインターネットの地獄を見つけるとその奥まで踏み込みたくなる性質なので「アーティスト名 いじめ」で検索すると、そのアーティストを聞くのはやめろ、聞いているならば、人として終わっている、むしろ過去を知らなくても本物の音楽を知っている人間は必ずこのアーティストの薄っぺらさを看過するだろうぐらいの勢いで声高に主張するブログと、賛同するコメントたちが目についた。
しかも、しかもだ。もし僕がいじめられっ子だった場合、このアーティストについて You Tube でわざわざ「こいつはいじめっこ、こいつの音楽を聞いてはいけない」なんて書いてない方が、トラウマを刺激されず心おだやかにいられると思う。しかし、このコメンターはゲスな人間が作った音楽を背景を知らずに好きになってしまう(本物の音楽を知らない)不幸な人間を救いたいと思って書いているのだ。IFルートでいじめられっ子だった僕が間違った音楽に惹かれないように導いてくれているのだ。大きなお世話だ。こうして、インターネットにまた一つ、誰も幸せにならない小さな地獄が生まれていく。正義の名のものに、ね。
このような最低な正義感の発露に貢献するパターンに対する嫌悪感も後押しした上で、やはり僕はその人の作品と人間性は切り離していきたいし、僕のこのマイノリティな感性は多様性の名の下、守られるべきだと思う。同様に、おそらくマジョリティと思われるその人の作品と人間性を同列に語る人たちの感性も守られねばならない。わかっている、わかっているんだが、そのマジョリティの中の一部の人間があまりに嫌いすぎて、ふと思い出してこんな文章を書いてしまっている僕がいる。あわよくば、マジョリティの一部がマイノリティな感性に変わらないかと欲を出してしまっている。わざわざブログを書いたり You Tube にコメントする人なんて一部で、その集団の代表でもなんでもないのに。多くの人はベッキー騒動でゲスの極み乙女を聞かなくなり、関ジャムに出演していたら違うチャンネルに回すだけの無害さだというのに。
どうでもいい僕の話ですが、僕はBUMP OF CHICKENからロックに入り、そこからくるり、スーパーカー、ナンバーガールにどっぷり浸かるという灰色の青春時代を送った人間の辿る文系ロックの王道ルートをなぞってきました。米津玄師がバンプ好きを公言しているように、バンプの影響はそこかしこに溢れています。ボカロの物語性のある歌詞もその一つ。バンドリの愛美もバンプが原体験だったはず。しかし、邦楽ロックで凛として時雨やアジカンや椎名林檎が影響を公言し心酔しているナンバーガールの系列がボカロに出力されないのが物足りなかったのです。そして、ずっと待っていたそれは最高の形でwowaka氏からアウトプットされたのです。