感覚で心の深いところをさしてくるような剥き出しの映画 ※ネタバレあり

 米津玄師の主題歌提供ツイート*1宮崎駿が2時間観客に説教をする内容ではないこと*2、「君たちはどう生きるか」というタイトル。たったこれだけの情報だけで映画を見に行った。映画館の席に座り、上映を待つ時間はものすごくわくわくした。動員が約束された巨匠にしかできない方法だとは思うが、今後もどんどんやってほしい。

 戦時中の警報がけたたましく鳴り響く冒頭で「あれ、もしかして期待と違う?」という思いがよぎったが、後半になるにつれめくるめくファンタジー世界が展開され、濃厚なジブリが怒涛の勢いで展開されていった。

 そしてラストシーンでボロボロに泣いた。自分自身理由が分からないままにあふれる涙が止まらなかった。僕は「泣きました」系の広告が嫌いだ。別に人間の感情表現は「泣く」だけではない、涙のツボに特化するだけならそれほど難しくもなく、それだけで作品の良さなどわかるわけもない、と思っている。しかしそんな僕でも「絶対的に信頼できる泣き方」があって、それは今作のように「意味が分からないけど涙があふれる」というパターンである。

 この感想は、その意味を言語化しようという試みである。

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 今作は説明が乏しく、意味不明なシーンが連続する。後半しっかり飲み込まれるまでは、適宜置いてけぼりにされながら、意味不明なシーンの連続をなんとか言語化したいなと、似た作品は何かと、考えていた。分かりやすいのは「不思議の国のアリス」だが(実際そう表現している感想もたくさんあった)、不条理系の映画ほぼすべてを包括する「不思議の国のアリス」を出すのは少々ずるい。そこで、僕が思い出したのは村上春樹の小説「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」である。ファンタジー世界と現実世界が同時並行で進み、それらが完全には交わらないが少しずつクロスオーバーして、だんだんファンタジーが現実を飲み込んでいく。主人公がファンタジー世界で、現実で自分の世話をしてくれる老婆たちの「人形」を発見するシーンの、ささやかなクロスオーバーを見ても、途中で現実に戻れる可能性を示唆するシーンを見ても、引き合いに出す作品としては結構ありな気がする。

 そうして、自分の中で似た作品を思い浮かべ道しるべにしながら、だんだん引き込まれていった中盤、改めて思うのだけれど、宮崎駿氏の作る世界のビジュアルには感服した。これが本当に82歳の脳内世界なんだろうか。あまりに鮮やかで、美しく、そして、ちょっと気持ち悪い。宮崎駿氏が好んで用いる簡素なデザインの妖精たちが、DNAのようならせん模様を描くシーンでちょっと泣けた。これはシンプルにビジュアルの美しさに圧倒された涙なのだが、とはいえそんな体験もなかなかない。

 そしてこのシーンで火を扱うヒミという少女が出てくる。ヒミは終始本当に格好いい。達観していて、しかし感情豊かで、ドラゴンボールサイヤ人のように全身に火をまとい火を自在に操る。簡素なデザインの妖精たちがなぜか悪の象徴として描かれる鳥(ここではペリカン)に襲われて現世に行けなくなりそうなときも、火を使って撃退する。それが部分的に妖精をも燃やしてしまうことにも怯まず、使命を完遂する。間違えなく作中最強キャラであり、メインヒロインである。

 僕は意味不明でモチーフもバラバラな夢世界に振り回されながらも、一つの核としてこのヒミの美しさ、格好良さに心を奪われた。ヒミが出てくるたびにうれしくなった。映画のポスターにでかでかと描かれたアオサギ手塚治虫の鼻にぶつぶつが多い老人のようなデザイン)はこの映画では異世界の案内人の役目をしており、主人公の次ぐらいに出ずっぱりで印象深いのだが、その印象に負けないぐらいヒミは本当に異様にキラキラしているように思う。過去作のジブリヒロインの中でも、圧倒的に異次元の美しさで描かれている気がする。

 そしてラストシーン、主人公は辛くもこの幻想世界の創始者である叔父のところにたどり着き、この幻想世界を引き継いでくれと頼まれる。しかし、それは主人公によって拒絶され、そしてひょんなことからあっさりと壊れてしまい、主人公たちは崩れ行く世界から逃げ出し現実へ向かう。そこで主人公は知るのだ。ヒミが、冒頭で戦火に焼かれて死んだ母親であることを。ヒミも主人公も現実に帰る。ヒミは主人公より少し過去の扉から帰り、それは主人公を生んでまた戦火に焼かれることを意味するのだが、葛藤する暇もなく、二人はそれぞれの扉を開ける。

 このラストシーンで、僕は涙が止まらなかった。多分、そこで僕の中で初めてこの映画の中で「感覚」と「理屈」が一致したからなんじゃないかな、と思う。終始示唆的で意味不明なことを話す幻想世界の住人達、その中で飛びぬけて格好いい存在は、なんとなく「感覚」で母親じゃないかな、と思っていたら、やっぱり母親だった、という伏線回収的な気持ちよさ。しかしそれに浸るまでもなく、目の前から消えてしまう儚さ。この怒涛のラストシーンには、不可思議で意味不明な旅で観客が抱いたたくさんの「?」が「!」に一気に変わる瞬間の、圧倒的なカタルシスがある、と思う。

 ただ、僕が引っかかるのは、この映画に葛藤が不在、という点である。エヴァンゲリオンのシンジ君なんかはもうほぼ作品の99%を葛藤の中ですごしているわけだが、主人公は一瞬も迷う気配はない。「現実に帰る」という強い目的意識ーー幻想世界のメンテナンスを引き受けることに迷う気配は(あれだけ会いたかった実の母親が隣にいるにもかかわらず!)一瞬たりともない。

 宮崎駿氏は一貫して現実主義者である。スマートフォンに囚われる僕らを「画面こすってて気持ち悪い」といい、「その鳥は飛んでいない」と作品内でも強く現実を模倣し、ラピュタでは「人類は土から離れては生きられないのよ」と言い放つ。これほどまでに圧巻の脳内世界を持っているのにもかかわらず、だ。

 もしかして、宮崎駿氏はこう言いたいのではないか。僕らは、どれだけ素敵なファンタジーに溢れている現代を生きていても、現実に帰る以外の選択肢がないことを「考えるまでもなくわかっているだろう」と。……冒頭で取り上げた「宮崎駿が2時間観客に説教をする内容」というジョークも、あながち間違っていないのかもしれない。君たちは現実を生きるしかないということを「分かっている」。ポスターよりだいぶ気持ち悪いし嘘つきなアオサギを「友達」と呼びながら、「土を踏みしめて」生きていくしかないことを「分かっている」。そういえば、タイトルも「僕たちはどう生きるか」ではない。「君たちはどう生きるか」だもんな。問いかけではないのかもしれない。この映画が、この映画の主人公の選択が「君たちはどう生きるか」の答え、なのかもしれない。

 最後に。この映画の主題歌は米津玄師氏である。ウルトラマンの歴戦のコア・オタクたちをもってして「シン・ウルトラマンの主題歌の歌詞ですべて語られてしまった」と言わしめた完璧な歌詞を書く彼なので、答え合わせのような感覚で僕は「地球儀」の歌詞をかみしめながら聞いていた。思ったよりも歌詞はシンプルに映画をなぞるようなもので、シン・ウルトラマンの「M八六」のような答えそのものではなかった気がする。米津玄師氏をしても、この圧倒的な創作に関してはそっと寄り添うことを選んだのかもしれないな、と思ってまた少し感動してしまったのだった。



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画像は米津玄師さんのツイートより引用(https://twitter.com/hachi_08/status/1679685709232484352?s=20