野音で THE MATSURI SESSION を聞きながら大人について考えた

 大人って何だろう、みたいなことを真顔で言うのもそろそろ厳しいかなって思う。分からないふりをするつもりもない。大人とは虚勢を張れるようになった子供である。感情の発露を抑えて、建前でお話ができるようになった子供のことを大人と呼ぶ。多分。

 

 だから大人はつらい。魔法少女まどか☆マギカでまどかのお母さんもそう言っていた。だからこそお酒を飲んで忘れてもいいことになっている。僕も何か忘れたいことがあるから、ここ、日比谷音楽堂に来て昼間っからハイボールを飲んでいるのかもしれない。別にハイボールは好きじゃないのだけれど、向井さんを見る時はハイボールを飲むべきかなと思うのだ。

 

真後ろのビルの屋上に生えた木にすごく都会を感じた

 たまたま、僕の隣の席は幼稚園ぐらいの小さな子供とお父さん、の親子だった。ライブを心行くまで楽しむなら、お母さんに子供を預けたほうがいいだろうが、まあいろんな事情があるのだろう。お子さんは、お父さんにしきりに「まだ始まらないの?」と聞いて、KIMONOS のあたりで帰りたそうな雰囲気を出した。お父さんはそこで諦めて、子供を連れてライブ会場を去った。

 

 まさに「子供と大人」の対比だった。子供は見たいものだけ見て、集中が切れたら帰ることを許される。大人は周囲の迷惑を考えて自分の心を押し殺す。けれど、僕はそれをかわいそうな姿とは思わなかった。ZAZEN BOYS のパートをおとなしく見ていたお子さんに対してお父さんも何かしら感じるものはあっただろう。

 

 今はまだ向井秀徳の良さはわからないだろうが(わかってもらってもそれはそれで困る)高校ぐらいで今日のことを思い出してバンドを始めるかもしれないーーそんな思いを抱きながら、お父さんは日比谷音楽堂の階段を昇って行ったのかもしれない。少しだけうらやましいな、とすら思った。

 

 「先輩、この年になってその痩躯は厳しいですよ、筋トレしましょ」と後輩に言われたり「お前、そのぼさぼさの髪でデートに行くのか?」と女の子を紹介してくれた友達に言われたり最近そんなことも多い。その指摘を切り捨てて、子供のまま、今でも野菜に対して指摘されると怒る堀江貴文のようにロックに尖って生きていこう、とも思えない。そろそろ大人っぽい虚勢をまといたいと思う。いや、本当だよ。

 

 さて、アーティストとは子供のままでいることを許された(求められた)人間であるという。しかし、オールスタンディングの ZAZEN BOYS から、座ったり立ったり踊ったり自由な KIMONOS 、最後には座って聞き入るのがほとんどの 向井秀徳アコースティック & エレクトリック、とだんだん人は座っていくのにもかかわらず気持ちはより釘付けになっていくという稀有な構成で今日のライブを行うと決めた向井秀徳は、老成した姿を見せてくれているようにも見える。その姿は大学生で謎のブランドで着飾った後に父親になって素朴なユニクロに身を固める僕らの変遷を見ているようでもある。

 

 Looper も使わず、生のアコースティックギター一本で歌い上げた「永遠少女」はとんでもない強度があり、僕の心に突き刺さった。あれは、今の年齢に差し掛かった向井さんでなければできない演奏だった。厳しく、生々しいのに、どこか僕の隣に座ったお父さんが子供を見るまなざしのように、優しい演奏だった。

 

 その後のアンコール「ポテトサラダ」はどこか、背伸びして虚勢を張ったからこその大人の無礼講というような趣に聞こえた。俺だって本当は、どんぶりいっぱいのポテトサラダが食いたいし、女としっぽりしけこみてえ……。そう、大人も虚勢を張るようになっただけで、心は子供のままなのだ。きっと。

 

 「探せ 探せ 探せ」と永遠少女の最後で向井は連呼する。僕もこんな知ったような口の文章を書いておらず、虚勢を張れるようになろう。だから、探さなければいけないのだ。何を? よくわかんないけど、何かを。

 

 とりあえず、友達に怒られたボサボサ頭を来週切ってから、考えるとしよう。

 

https://x.com/a6sk/status/1794684467623428491 よりお借りしたセトリ