曖昧な言葉達を紡ぐ

こうしてレビューを書いたり、日記を書いたりしていると、ふと凄く不毛なことをしている気分になることがあります。村上春樹さんが、著作の中で何度も「言葉にすると、どんどん本質から離れていく」と書いていますが、実にそのとおり。実際、音楽は言葉には変えられないし、「レビューなんかあてにしないで、自分の耳で聞いて判断しろ」って意見も納得。僕自身、感動を言葉にすることで、高尚さが薄れたりするのを感じることがあります。


ただ、それは別にして、僕は「今、この状況」や「感動を与えてくれた音」に近い言葉を探して、紡いでいく作業・・・それ自体が好きなんですよ。その作業によって、本質が溢れだしていくとしても。それは言葉が持つ器の深さを示してるとも考えられますし。


たとえば「透明」。この言葉は、凄くいろいろなところで使えます。具体的に透明なものをただ表現することもできるし。「彼の声は透明感がある」とか、透き通ってて脆いものや、弱々しくて張り詰めているものの比喩に使うコトだってできるんです。そして、同じ言葉でも、人によって感じ取るものは、また微妙に違うだろうし。


何かに感動したとき、部屋の片隅で、猫のように小さくまあるくうずくまっている、ふわふわした言葉を見つけて、紡いで、文にしていく。だんだん本質から離れていくとしても、言葉一つ一つの意味が薄れていくとしても、それはやっぱり素敵なことで、時に不毛さを感じることがあっても、僕は文を書き続けていきたいなと思います。音楽レビューも「レビューなんかあてにしないで、自分の耳で聞いて判断しろ」とはいっても、この世界にあまりにたくさんある音楽の「何を聞くか」のきっかけとなることは素敵だなと思うので、続けていきます。それに、個人的に好きなCDについて他人が語ってるのを見るのが好きですし。


ちょっと秋が深まってきたので、自分とこのブログを見つめ直してみました。